大館市生まれの渡辺喜恵子(1914〜97)は、みちのくの女性の四代にわたるさまざまな愛と歴史を描いた『馬渕川』で知られています。小林多喜二(1903〜33)は『蟹工船』、『不在地主』などで、貧しい虐げられたものへの人道的な愛と、そこに発する救いようのない反抗を基調とするプロレタリア作家として活躍、非業の死を遂げました。
角館市は京文化を色濃く今に伝えています。高井有一(1932〜)は、1945年(昭和20)中学一年生のとき疎開、多感な青春時代を過ごしました。横手市は、石坂洋次郎(1900〜86)が1926年(大正15)から1938年(昭和13)10月職を辞すまで横手高等女学校などで教鞭をとりました。横手在住中『若い人』を書き、また横手を舞台にした『山と川のある町』で知られています。横手は『蒼茫』『生きている兵隊』『人間の壁』で知られる石川達三(1905〜85)の生誕地でもあります。また、幕府草創期の功臣本田正純・正勝父子が「宇都宮釣天井事件」で失脚し、幽囚の晩年を送って果てた地でもあります。
この事件は、一六二二年(天和八)徳川秀忠が日光参詣の帰途、宇都宮城主であった正純が怪建築を設けて秀忠を害しようとしているとの密告があり、秀忠が宇都宮城に泊まらず夜通して江戸に帰った事件です。真相は闇に包まれたまま、これが原因となり父子は失脚しました。
平安時代の歌人小野小町は、各地に小町伝説を残していますが、なかでも有名なのが出羽国小野の里(雄勝町小野)です。伝説によれば、出羽国郡司小野良実の子として生まれた小町は、良実の任が満ちた九歳のとき父に連れられて京都に帰りました。美しく教養豊かに育った小町は宮中に仕え、才知と美貌で一世を風靡しましたが、年とともに故郷の地が恋しく、ついに小野の里に帰りました。晩年は、雄物川の川辺の岩屋に住んで香をたきながら自像を刻む日々を過ごし、900年(昌泰3)九十二歳で没したと伝えられています。小町の霊を祀るために建立された小町堂の後方百メートルほどの田んぼの中にある古墳状の二つの小さな森は「二つ森」と呼ばれ、小町と小町のもとへ九十九夜通ったという伝説上の悲恋の人・深草少将の比翼塚であると伝えられるなど、小町にまつわる数多くの物語を今に伝えています。
・象潟に見たる椿と百姓ら 飯田 蛇笏
かつて松島と並び称された象潟九十九島、八十八潟の絶景は、1804年(文化1)出羽地方を襲った大地震によって土地が隆起し、今では大小の小山がその奇観をとどめているだけです。しかし象潟には多くの人々が訪れ、秀歌、秀句をとどめています。
・天に座す豊岡姫に言問わん幾世になりぬきさかたの神 能因
芭蕉は象潟到着後最初に、能因が三年間隠棲したと伝えられる能因島を訪れています。
大曲市には、前九年の役のときの安部貞任の居城跡と伝えられる松山城跡や、後三年の役のとき清原家衡・武衡と清原(藤原)清衡と源義家の軍勢が対峙した古戦場があります。今東光(1898〜1977)最後の作品となった大河小説『蒼き蝦夷の血−藤原四代』の第一巻「清衡の巻」は、その時代を描いたものです。