トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
本州の最果て青森−その1−
2002年8月10日


 青森湾に面する「外が浜」は古くは「外の浜」と呼ばれ陸奥国の歌枕の地として知られています。四番目物の夢幻能「善知鳥」で知られ、生前善知鳥の子鳥を捕らえるのを生業としていた猟師の亡霊が、地獄での報いを諸国の僧にまざまざと見せる場所でもあります。

 ・陸奥の外の浜なる呼子鳥(よぶこどり)
     鳴くなる声はうとうやすかた    藤原定家

 恐山は、下北半島のほぼ中央に位置する円錐形休火山を中心とする霊場で、イタコ(盲目の巫女)が死者の言葉を伝える呪術(口寄せ)を行うことで知られています。

 ・湖澄むに地獄より血の流れくる   誓 子

 十和田湖は、主である八郎太郎が田沢湖の辰子姫のもとにしきりに通ったという伝説を持つています。八郎太郎は十和田湖の南、草木集落(秋田県鹿角市)で生まれ、やがて大蛇に化身し、十和田湖の主になりますが、熊野の修験者南祖坊と闘って敗れ、追い出されて八郎潟の主となつたという物語が秘められています。

 ・十和田湖に星飛びたりと便りせむ  青 畝

 竜飛崎は津軽半島の最北端の岬。津軽海峡の激しい海流を足下にして海蝕洞や奇岩に富んでいる岬で、詩情誘われる風情を持つています。

 ・あまたゐて千鳥はなかず竜飛崎   占 魚

 五戸は、戊辰の役で敗れた会津藩がその再興をかけた斗南藩三万石の藩庁が置かれました。苦難の開拓を強いられた旧会津藩士の子弟からは勝れた人材を数多く輩出しました。武蔵野の哲人といわれた江渡夷嶺(1880〜1944)、明治期の人物評価の第一人者鳥屋部春汀(1865〜1908)らが社会的に高い業績を上げました。
 棟方志功(1903〜75)は、青森市の善知鳥神杜の近くで生まれました。青雲の志を持って上京、故郷の伝説「善知鳥」を題材にした「善知鳥版画巻]を彫って文展に出展し、版画部門で官展はじまって以来の特選を受け、以降独特の棟方芸術の世界を拓きました。

 ・青森の港見過ぎて春浅き    村山 古郷

 天性の詩人であり創作家であった寺山修司(1935〜83)は、弘前市で生まれ多感な青春時代を青森市で過ごし、エッセー、小説、演劇、映画と活躍の場を広げ、常に時代の先端を疾走していきました。

 ・マツチ擦るつかのま海に霧深く
     身捨つるほどの祖国はありや 寺山 修司

 弘前市は、津軽藩十万石の城下町として栄え、桜の名勝として、また文化の香り高い町として知られ、葛西善蔵、石坂洋二郎、佐藤紅緑、今官一らを輩出しました。

 ・弘前や遅き桜に雨冷えて    石塚 友二

 葛西善蔵(1887〜1928)は、三歳の頃生家が没落、辛酸をなめながら多感な少年時代を過ごしました。創作を志し上京、東洋大学で学んだ後、『子を連れて』で作家として認められました。貧困と肺結核、一家離散の憂き目を見ながら『悲しき父』『椎の若葉』『湖畔日記』などの名作を残し、四十二歳の生涯を終えました。

 ・白根山雲の海原夕焼けし
     妻し思えば胸痛むなり   善 蔵

 石坂洋二郎(1900〜86)は、慶応義塾を卒業した後、『若い人』『青い山脈』『石中先生行状記』などで一世を風靡しました。『青い山脈』は1947年(昭和22)朝日新聞に連載されたあと映画化され、東北の港町を舞台に高校生の男女交際騒動を通して、自由と民主主義を謳い上げ、西条八十作詞、服部良一作曲の映画主題歌とともに、戦後の荒廃の中から立ち上がりつつあった多くの国民に夢と希望を与えました。