近世奥州の幹道であった奥州街道は、東海道、中山道、日光街道、甲州街道とともに五街道の一つとして知られ、江戸千住(足立区)から白河(福島県)を経て三厩(青森県)に至る、現国道四号線にほぼ相当する街道です。千住から栃木県宇都宮までは日光道中、次の白沢(河内町)から福島県白河までが江戸幕府の道中奉行の支配する奥州道中であり、白河以北はその延長として奥州街道と呼ばれていました。街道の整備は街道沿いの藩によって行われました。整備はまず大名の参勤交代路となった幹道から始まり、次第に領内道の整備に力が注がれるようになりました。
文政年間(一八二〇年代)奥州街道を利用した大名は二十九家におよび、中山道とともに東海道に次ぐ多さでした。大名は奥州街道沿いのものはそのまま一路江戸へ向けて南下し、羽州街道や脇街道からは奥州街道へ出て江戸へ向かいました。参勤交代は大名家にとっては、ひとつの権威を示す場でもあったので、それぞれに衣装をこらした一大絵巻でもありました。とりわけ仙台藩の行列は大変華美で多くの人びとの目を驚かせました。伊達騒動時の幼君亀千代で知られる四代藩主綱村の初入国は、十五年ぶりの藩主帰国ともいうことで、行列総数三千四百八十余人を数えましたが、通常でも二千人程度の大行列でした。
一七八八年(天明八)幕府巡見使に随行した古川古松軒はその著『東遊雑記』に、帰国する仙台藩主一行の様子を、「薩州侯などの御行列よりも美々しくて、丈夫はいふに及ばず、すべての士格伊達道具をふらせ、目を驚かせし御供廻りなり。(中略)およそ国守方の御行列あまねく接せしに、いまだかかる美々しきはみざりしなり」と記しています。天明の飢饉などによって、どの藩も財政が逼迫しながらも、大名の権威が優先されたのです。宿駅の伝馬だけでは対応できない場合は広範囲に助郷役が動員され、一行は本陣や脇本陣のほかにも民家に休泊したり、野営もしました。
白河宿を出て北上すると、根田・小田川・大田川の各宿、踏瀬宿を経て通称五本松の松並木を通り、中畑新田宿にさしかかると一八一一年(文化八)建立の常夜灯があります。これは分岐する常陸街道などの案内の役割を果たしたのでしょう。矢吹宿は十返舎一九の『金草鞋』などその繁盛ぶりを描かれたところです。
国指定史跡須賀川一里塚を過ぎると須賀川宿です。会津若松と磐城への分岐点で賑わった宿ですが、一六八九年(元禄二)芭蕉は旧知の相楽等躬のもとに七日間ほど逗留し、地元俳人と俳諧の興業、史跡景勝の探訪などで過ごしました。
風流の初や奧の田植うた 芭 蕉
等躬の屋敷近くに栗の木のある庵を結んでいた僧可伸(俳号栗斎)という超然とした生活をしていた人がおり、芭蕉は一度その庵を訪ねました。
世の人の見付けぬ花や軒の栗 芭 蕉
郡山宿は、会津街道・三春街道へ分岐する交通の要衝で、一八二四年(文政七)公的に郡山町に昇格し南北入口には木戸門(枡形)が設けられるなど、宿場町から福島県第一の都市に成長する基盤はこの当時すでに形成されていました。福原・日和田・高倉・本宮・杉田と宿場が続き、松並木が続いていました。
本宮宿は磐城街道、奥州西街道、二本松街道が分岐する要衝地で、文政七年には町の呼称が許され枡形も新設されました。
二本松宿は、藩士の戒めとて刻み込んだ「戒石銘碑」で知られる丹羽氏十万石の城下町で霞ケ城公園は近時「菊祭り」で著名です。
さらに進むと福島宿に至ります。伏拝公園内には、福島に支店をもっていた飛脚問屋が一八〇五年(文化二)道中の安全を祈願して建てた馬頭観世音碑があります。福島城下は板谷峠越えの米沢街道、土湯峠越えの会津街道、相馬に行く中村街道の分岐点で、阿武隈川の福島河岸・舟場河岸があるなど古くから水陸交通の要衝で、蚕種・繭・漆・紅花・玉子・糸綿などの商品輸送路としても賑わっていました。