トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
奥州街道・その2(越河〜吉岡)
2002年8月31日


 福島城下を出て瀬ノ上、桑折、藤田、貝田の宿を経て、仙台領へ入ります。藩境の越河宿(宮城県白石市)には境目足軽が、藩境を越える人や物の改めを行っていました。仙台藩主の参勤交代時にはここまで重臣が送り迎えし、仙台城下までの各宿駅には重臣や家臣が交替で詰めていました。斉川宿は疳の薬として知られるヘビトンボの幼虫孫太郎虫で有名で、そこを過ぎると白石城下です。

 白石城は、一国一城制の例外として認められた城で、参勤交代時仙台藩主が休泊した場所です。仙台藩の重臣片倉氏が城主を務め、激動の幕末維新にかけて、会津藩救済を目的に奥羽二十五藩が一堂に会し、奥羽列藩同盟を成立させるなど、長い歴史の時々に重要な役割を演じてきました。

 刈田宮宿は古くから最上へ向かう笹谷街道の分岐点で、近くに流れる白石川は白鳥の飛来地として知られ、白鳥伝説も伝えられ蔵王山麓刈田峰神社は別名白鳥神社といわれています。金が瀬宿を過ぎ紅花取引でにぎわった大河原宿、源頼朝が宿泊した舟迫宿、そして槻木宿を過ぎると岩沼宿にさしかかります。

 岩沼宿は、太平洋岸を北上する江戸浜街道が合流する交通の要衝で、要害岩沼館は白石城と同じように藩主の休泊地で、馬市も立ち、また街道沿いの竹駒神社は、農業、養蚕、馬市、職人の神で広く信仰を集め内外の参詣で賑わいました。岩沼は、歌枕として著名な阿武隈川が流れ、武隈の松の所在地としても知られています。さらに進むと名取川にさしかかり、これを越えると仙台城下に入ります。

 広瀬川に架かる長さ七十三間(約一三〇メートル)の大橋を渡ると仙台城下です。中心部に近づくにつれ、外壁を漆喰などで塗り込んだ塗家が多く、立派な町並みが広がっていました。他国からの旅人は四隅の威容を誇る芭蕉の辻をはじめとする町の立派さにまず驚いたと、南部藩士清水秋全は『増補行程記』に記しています。
 仙台城下には、伊達三代の廟所や大崎八幡宮、国分寺薬師堂、伊達家の氏神亀岡八幡宮などがありました。また特に、東照宮の祭礼は盛大で、盛岡藩や白石からも祭礼見物のため街道を往来しました。城下の北端堤町では、土人形が焼かれ旅情を慰められた旅人も多かったものと思われます。仙台城大手門に通じる大橋の擬宝珠には「仙人橋下、河水の流れが永劫に変わらず、民・国とも安泰にしてまさに聖天子堯(舜と並んで中国の理想的な聖王)の世に比せんことを」と記されていました。これは政宗が仙台命名に当たって中国の古代の帝都・洛陽を模した都づくりをしたいという、意気込みをあらわしたものといわれています。
 仙台は歌枕として著名な、つつじが丘、宮城野原の所在地であり土井晩翠、島崎藤村、真山青果、落合直文、中国の文豪魯迅ゆかりの地です。

 さらに北上すると七北田川に突き当たります。左方には仙台藩刑場跡が往時の面影を今に伝えています。さまざまな思いを胸に多くの人々は刑場の露と消えた場所です。

 富谷町新町の宿駅を過ぎると吉岡宿です。吉岡宿は出羽街道が分岐する要衝の地であったため、伝馬役の過重な負担で疲弊し、空き家が年毎に増えるなど極めて深刻な状態に立ち至りました。そのため町の有志が資金を調達し、その利息で吉岡宿の再建に充てる救済互助の事業を行うという大変画期的な事業を行い後世高く評価されています。明和・安永期(一七六四〜一七八一)に実施されたこの救済事業の起源・組織・実態について、吉岡の宝珠山竜泉院前住持栄州瑞芝が取りまとめたのが『国恩記』です。吉岡の左方には七ッ森の山々が変化に飛んだ姿が目を楽しませてくれ、その後方には泉ケ岳、船形の山々が連なっています。

 七ツ森の麓の大和町宮床は原阿佐緒の生誕地です。阿佐緒は素封家の一人娘として生まれ大切に育てられました。彼女が多感な少女時代を送った生家・白亜の洋館は『原阿佐緒記念館』となっています。

  沢蟹をここだ袂に入れもちて
             耳によせきく生きのさやぎを 原 阿佐緒