水沢は藩政時代は伊達家一門留守氏の城下町として栄え、また多くの人材を輩出しました。『夢物語』で幕府の鎖国政策を厳しく批判した幕末の先覚者高野長英(一八〇四〜五〇)、政治家で東京市長・関東大震災後は内相兼帝都復興院総裁として東京復興計画を立案した後藤新平(一八五七〜一九二八)、海相として海軍の近代化に尽力、五・一五事件の後を受けて組閣、辞職後は内大臣を歴任二・二六事件で暗殺された斎藤実(一八五八〜一九三六)、寿庵堰を開削した後藤寿庵(生没年未詳)、地理学者箕作省吾(一八二一〜四七)」など近代史に残る人材を輩出した「偉人の町」として知られています。
省吾は水沢留守家の家臣佐々木秀規の次男として生まれ、十六歳のころ京坂に遊学したあと江戸に出、箕作阮甫の門人になりました。ひたむきな勉励ぶりを阮甫に認められ、三女しん(のち、ちま)と結婚しました。『新製興地図』など、当時最新の世界地図を世間に流布して、井伊直弼、鍋島斉正、吉田松陰、桂太郎らを啓発しましたが、病のため二十七歳で没しました。
相去(北上市南端)は仙台藩が南部藩との境を接する最北端に位置し、南部藩の最南端鬼柳(北上市)と境を接し、古くから藩境の町として知られ、中心集落には足軽町が置かれていました。北上市は黒沢尻、相去、鬼柳など旧仙台藩・南部藩の地区が合併して出来た町で、この辺一帯には国の史跡に指定されている藩境塚を見ることができます。
また、両藩ならではのエピソードも伝えられています。昔、仙台藩の殿様が盛岡の殿様に手紙を出して、国境を決める申し合わせをしました。同一時刻に馬に乗って仙台と盛岡を出発し、落ち合った所を境にしようというのです。手紙では午と書いてある。盛岡の殿様はこれを牛と読み違え、牛に乗って出発したため到着が遅れ、仙台側にたくさんの領地をとられることになりました。両者来たりて会い、また去る。相去という名はここから生まれたというのです。相去を過ぎると盛岡藩です。
盛岡藩に入ると鬼柳宿、鬼柳番所があります。今は、北上市の一部である鬼柳は、中世この地を支配した和賀氏の一族鬼柳氏の本拠地で、藩政時代は南部領南端の宿駅として発展しました。北上市には、我が国初の詩歌専門の日本現代詩歌文学館が、一九九〇年(平成二)にオープンしました。和賀川を船で渡り黒沢尻・小宿の成田・花巻・石鳥谷・郡山日詰の各宿を経て盛岡に入ります。花巻の地名の由来は、北上川に花が散り渦を巻いて流れることによると伝えられています。宮沢賢治の生誕地で、賢治が農民講座を開いた羅須地人協会や彼の命名になるイギリス海岸など賢治ゆかりの地が数多く残っています。宮沢賢治記念館、詩人で彫刻家の高村光太郎が創造作活動を行った高村山荘が知られています。
石鳥谷は「酒の町」として知られ、藩政時代には南部藩主の御膳酒を毎日盛岡まで運びました。丹波(兵庫県)、越後(新潟県)とならぶ日本三大杜氏の一つ南部杜氏発祥の地で南部杜氏伝承館があります。宿駅を詠み込んだ奥道中歌には「東路を国のつつみに鬼柳、みどりにつきせぬ千代の齢を、紅の色あらそふや花巻の、石鳥谷より見ゆる山畑、ほととぎす声はりあげて郡山、卯の花咲ける花の盛岡」と歌っています。
盛岡の命名の由来は「盛る岡(繁栄する岡)」の願いを込めたもので、南部藩二〇万石の城下町として栄えました。北西には岩手山、北東に姫神山、南西に南昌山を中心とする山々を望み、南方には豊かな北上平野が開けています。洋々と流れる北上の大河が、水清く緑豊かな盛岡の町をつくりあげてきました。
盛岡の生んだ山口青邨(一八九二〜一九八八)は、高浜虚子に師事し、風趣に富む文人画的句集『雑草園』『雪国』『冬青空』で知られています。新渡戸稲造、米内光政、金田一京助ら盛岡出身あるいはゆかりのある人々の遺品や資料を展示した先人記念館、原敬記念館、萬鉄五郎・松本竣介・舟越保武など県出身の作家等の作品を展示した岩手県立博物館、橋本美術館があり、樹齢三百年以上と推定される石割桜も著名です。
藩政時代は、南部特産の馬市が開設され、幕府や諸藩の馬買衆で賑わいました。