盛岡城下を出ると渋民、沼宮内、小繋、一戸、福岡、金田一の各宿を進みます。渋民は岩手郡玉山村の中心地で石川啄木の故郷で、
かにかくに渋民村は恋しかり
おもひでの山おもひでの川 『一握の砂』
と詠んでいます。啄木ゆかりの宝徳寺、旧渋民尋常小学校校舎、石川啄木記念館があります。
福岡宿から右折して八戸城下に向かうのが八戸街道です。金田一温泉(二戸市)は、一六二六年(寛永三)開湯で、南部藩の指定湯治湯となり、「侍の湯」と呼ばれ、十和田湖、陸中海岸への中継基地です。
青森県の東部は旧盛岡藩・八戸藩領です。奥州街道は三戸・浅水・五戸・伝法寺・藤島・七戸と北上し野辺地を左折し、陸奥湾岸を小湊・野内・青森湊と進みます。
五戸・七戸などこの辺一帯は馬産地としても知られています。一一八九年(文治五)甲斐源氏の一族南部光行が源頼朝の奥州征伐に参加し、軍功により糠部郡(現在の北東北一帯)を与えられ、三戸に本拠を置いた南部氏は、一四三九年(永享一一)和賀・稗貫地方を攻略し、一四四三年(嘉吉三)津軽安藤氏を伐ち所領を拡大します。南部氏は領地を東西南北の四門と一戸から九戸まで九つの戸(四門九戸の制)により統括しました。のちに津軽氏に青森県西部を制圧され、盛岡を拠点に明治維新を迎えました。
野辺地はアイヌ語のヌップペッ(野を流れる川)に由来するといわれ、野辺地湊は南部藩の重要な湊として物資の移出入で賑わいました。西廻航路の商港として上方風の文化が伝わり、祇園ばやしや屋号などに往時の面影が偲ばれ、史跡も多く、下北観光の玄関口として、また陸奥湾ホタテの主要漁場として知られています。南西の浅所海岸の小湊はハクチョウの飛来地として知られています。
一六二四年(寛永一)津軽藩の外港として開かれた青森湊は東・西廻航路の拠点として栄え、明治以降は北海道との連絡航路として栄えました。函館と青森の定期航路の開始、東北・奥羽本線の開通によって発展を遂げましたが、第二次世界大戦の末期の空襲により市の主要部は焼失しましたが、その後戦災復興都市計画事業で発展しましたが、青函トンネル開通に伴い、大きな変革が迫られています。近時、三内丸山遺跡が、注目を集めています。八甲田山雪中行軍遭難資料館、棟方志功記念館、朝虫水族館が知られています。
野辺地を出ると間もなく盛岡・弘前両藩の藩境で、それぞれ番所と一対の藩境塚を設けていました。この辺一帯には盛岡藩への備えである津軽三関が設けられていましたが、月平均の片道通行人は百人程度でした。善知鳥村が青森村と改められ湊町が開かれたのは一六二五年(寛永二)で、弘前藩の湊奉行所と御仮屋が置かれていました。
青森湊を過ぎ奥州街道は、津軽半島の陸奥湾沿岸を北上します。宿駅は油川、蓬田、平舘、今別と続き、最北端の三厩に至ります。
油川はかっては大浜ともよばれ、外ヶ浜一帯の中心港でしたが、青森開港以後衰微します。
蓬田は戦国末期居城を構えた蓬田氏にちなみ、陸奥湾に面する半島部は平地や小河川に恵まれ、この地方最大の稲作地帯です。
三厩は、津軽海峡に臨む村で、義経の北行伝説の地で平泉から逃れた源義経が、この地から蝦夷地に渡った際、三頭の馬をつないだとされる三つの岩穴をもつ厩石があり、その地名の由来になったといわれています。本州北端竜飛崎は、百メートルの断崖で遠く北海道を一望でき、白亜の竜飛崎灯台や強風を利用した発電用の風車が立つ竜飛ウインドパークが、過去・現在そして未来へ私たちを誘ってくれます。