トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
羽州街道・その2(天童〜新庄)
2002年10月5日


 山形城下を出た街道を北上すると織田氏の城下町天童宿に入ります。
 天童は藩士の内職から始まった将棋駒で知られ国内生産量の九五パーセントを占め、舞鶴公園で行われる人間を駒に見立てた人間将棋が有名です。一 九一一年(明治四四)潅漑用水の掘削中温泉 が湧出、いまは温泉の町としても知られています。乱川の手前の街道脇に「一天四海有縁無縁、法海平等利益、皆帰妙法、草木国土悉皆成仏」と刻まれた碑があります。この辺一帯は氾濫の多い地域で田畑、草木と旅人の安全を祈願した草木供養塔です。

 織田信長の第二子信雄の子孫は出羽天童藩主および丹波国(京都府中部・兵庫県の一部)柏原藩主として、信長の弟長益(有楽斎)の子孫は大和国芝村藩主および大和国柳本藩主として四家がその名跡を伝え、廃藩置県を経て一八八四年(明治一七)それぞれ子爵に列しました。

 疱瘡の神である若木神社、江戸初期六田宿で殺された秋田藩の飛脚那珂与次郎の霊を供養して建てたといわれる与次郎稲荷を通り、楯岡宿(村山市)に着きます。楯岡は楯岡氏、最上氏が築城した小城下町で、藩政時代は宿場町として栄えました。村山地方は有数の穀倉地帯として、江戸時代の北方探検家最上徳内の生誕地としても知られ、最上徳内記念館があります。楯岡には、一七五五年(宝暦五)この地方の飢饉惨状を幕府に訴え、住民を救おうとして逆に罪を問われた、尾花沢代官辻六郎左衛門の徳を偲んで村人が建立したといわれる碑があります。
 楯岡は村山地方の特産物最上紅花や煙草などの商品の輸送で大いに賑わいました。これらの商品を出すのに大石田までは羽州街道で陸送され、大石田河岸から最上川舟運が利用されました。楯岡近くに最上川三難所の一つ碁点峡があって、高価な商品である紅花などの輸送にあたっては水の危険が予想されたのでこれを避け、街道輸送にしていたのです。

 大石田は、最上川の中流域に位置し、河口の酒田からの大型船と上流の小型船との中継地点となるため、すぐ上流部にある難所を避けて、羽州街道を陸送された紅花などの積み替え地点となるため賑わった場所です。
 大石田には、松尾芭蕉、正岡子規、斎藤茂吉など多くの文人・墨客が訪れました。

 尾花沢宿は、松尾芭蕉が一六八九年(元禄二)門人の河合曽根良とともに、「紅花大尽」と称された豪商で清風の俳号をもつ鈴木八右衛門を訪ね滞在した所として有名です。尾花沢は銀山越えで仙台藩領にも通じる交通の要衝で、さらに、「奥羽の駒数千疋、引き来て売買する」といわれた馬市で賑わいました。藩政時代は、幕府直轄の銀鉱山で賑わい、幕府の代官陣屋も置かれましたが、今は銀山川を挟んで大正期に洋風建築を取り入れた木造三、四階建の旅館が軒を並べ、素朴な湯治湯の雰囲気を伝えており、また市内には芭蕉・清風歴史資料館があります。

 名木沢宿は村山地方最北の宿駅のおかれた場所で、本陣・脇本陣もあった宿駅ですが、一八三二年(天保三)人馬負担に耐えかね休宿願いを提出するほど困窮を余儀なくされました。猿羽根峠を越えると新庄藩です。

 新庄は最上地方の中央部に位置し、宿場と城下町を兼ねる拠点として発達しました。新庄内の羽州街道宿駅は舟形・新庄城下・金山・及位と四つの駅がありましたが、なかでも舟形宿には新庄藩の番所も置かれ重視されました。舟形宿を出ると城下には舟を利用して小国川を渡らねばなりませんでした。一八七八年(明治一一)ここを通過したイサベラ・バードは見事な杉並木に驚いています。
 新庄は最上氏改易後戸沢氏十一代二百四十六年間の歴史を積み重ねた場所です。古川古松軒が記したように、城下でも草葺の多いけっして豊かな藩ではありませんでしたが、最上地方は盆地の城下に商業が集中し、松尾芭蕉も訪れ歌仙一巻を巻き、また和算が盛んで幕末の和算家松永貞辰には、三千人の門弟がいたと云えられる風土を持った地域でした。