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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
羽州街道・その4(秋田〜油川)
2002年10月19日


 秋田に入ります。秋田は雄物川下流に位置し、中世のはじめ秋田城介が差配しましたが、のちに津軽から安東氏が南下して土崎に城を構えました。安東氏は関が原の戦いでは石田三成側に加担したため常陸(茨城県)に転封されました。佐竹義宣は一六〇三年(慶長八)久保田城を築城、明治に至るまで二十万石の城下町として栄えました。久保田城跡は千秋公園として整備されるとともに、市内には復古神道を体系化し、尊皇運動に大きな影響を与えた平田篤胤の墓や佐竹氏菩提寺天徳寺などの史跡、青森のねぶた・仙台七夕とならぶ三大祭の一つ竿頭で知られています。

 土崎を出た羽州街道は日本海・八郎潟沿いを北上します。大久保・虻川・大川・一日市・鹿渡・森岡(森岳)・豊岡の各宿を経て能代・檜山方面に至ります。
 古川古松軒は大久保宿までの羽州街道の風景を「五里の道々飄々として野原の砂地にて」とその著『東遊雑記』に記した砂丘の道でもあります。大久保宿は虻川宿と半月交代で人馬を負担し、幕末には窮乏から本陣を返上したいと申し出たほどでした。
 馬場目川での渡船場でもある大川宿も対岸の一日市宿と半月交替で人馬を負担していました。宿は人馬の供給など多く、近辺の人々には大きな負担を伴うものでした。

 羽州街道は米代川沿いを進み各宿を経て大館に入ります。大館市は現在秋田第二の都市ですが、九世紀には火内(比内)の名で記録に現れ、戦国時代には安藤・津軽・南部の三大名が、森林・鉱山資源を巡り抗争を繰り返した場所です。一六〇二年(慶長七)佐竹氏の所領となり、現在の桂城公園内に城が築かれました。南部藩との境界地であったため、一国一城制の際にも棄却を免れ、城下町として栄えました。米代川の舟運のほか、羽州街道や鹿角街道の交わる地域として商業の中心地でありました。また天然秋田杉の産地として、日本最大の黒鉱鉱床の分布地として知られ、鉱山集落も形成されました。
 秋田犬は、大館・鹿角地方が原産地で、在来の中型狩猟犬と他種の交配で作出され百年の歴史をもち天然記念物に指定されています。

 羽州街道は矢立峠に差しかかります。この峠は、白沢付近で起こった相馬大作事件でも著名です。相馬大作は江戸後期の南部藩士で、本名は下斗米秀之進です。反目し合っていた隣藩津軽の藩主を矢立峠で襲い失敗、江戸に逃れましたが捕縛され、小塚原で斬罪に処せられました。『檜山実記』など講談にも脚色されました。

 羽州街道は弘前藩に入ります。碇ヶ関、大鰐、弘前、藤崎、新城と各宿を進み油川で奥州街道と結ばれます。
 碇ヶ関は羽州街道の関所が置かれた場所で、碇ヶ関温泉は、大鰐・碇ヶ関温泉郷の一つとして、江戸時代には津軽藩の湯治場として御仮屋が設けられました。近くには自らの深刻な生活経験を描写、典型的な私小説作家として『子をつれて』『湖畔手記』『椎の若葉』などで知られる弘前市出身の葛西善蔵の文学碑を中心とする三笠山公園があります。弘前は津軽十万石の城下町として、さらに軍都・学都の町、江戸・明治の建物が溶け合う町、リンゴと桜とねぶたの町、秀峰岩木山を臨むまちとして、豊かな文学風土を形成してきました。

 藤崎(藤崎町)は、江戸時代岩木川の水運によって十三湊と結ばれた水陸運の要衝の地で、安藤氏の藤崎城があった所です。なお、中世栄えた十三湊(市浦村)は「とさ湊」とも呼ばれ、十三安東氏の支配下で安東水軍として九州沿岸部まで交流し、「三津七湊」の一つに数えられ繁栄しましたが、一三四〇年(興国一)の大津波で壊滅的な打撃を受け衰退しました。 

 羽州街道は新城を経て油川に至り羽州街道の長い旅は終わります。