旗巻峠(福島県・宮城県)は、宮城県丸森町と福島県相馬市の境にある標高220メートルの峠です。名前の由来は、前九年の役の時、蝦夷の酋長安倍頼時の軍が源頼義・義家の軍勢の前に旗を巻いて退散したとか、戦国時代伊達輝宗・政宗父子が相馬氏と争った時に峠で旗を巻いて引き上げたことによるなどといわれています。
1868年(慶応4)戊辰戦争時、常陸平潟(いわき市)に政府軍が上陸、激しい戦いのなかで仙台藩を盟主とする奥羽越列藩同盟から各藩がつぎつぎと離反・降伏が続くなかでついに相馬藩も離反し、相馬口駒ヶ嶺の対戦に敗れた仙台藩最後の激戦地となった場所です。大仏次郎の小説『からす組』は、仙台藩の隠密烏組が、この峠を舞台にした戊辰戦争で活躍する姿を描いたものです。重い悲しい歴史を秘めた峠は、古戦場碑が立つ史跡でもあります。
みちのくの風をさまりし花芒 青柳志解樹
坑道冬をしずくし隠れ切支丹 諸角せつ子
笹谷峠(宮城県・山形県)は、仙台藩南部と山形城下を結ぶ笹谷街道にある峠です。宮宿(宮城県蔵王町)で奥州街道と分かれ、四方峠を越え、川崎、今宿の各宿場を過ぎ笹谷坂元沢から奥羽山脈の山形神室山と雁戸山の鞍部を越えるのが笹谷峠です。
古代に拓かれたといわれるこの街道は、歌枕に詠まれた有耶無耶の関との説もあり、藩政初期秋田藩主佐竹氏などの参勤交代路として利用され、山形藩から太平洋岸荒浜湊への年貢米輸送路としても利用されたこともありました。
江戸中期の南画家高知出身の中山高陽は江戸から仙台、象潟を旅した時、笹谷峠北方の二口峠を越えて山寺に出る道をとり、帰路笹谷峠を越えて帰仙しました。峠の周辺は広々とした高原で八丁平と呼ばれ、吹雪で遭難した背負い人夫の霊を弔った六地蔵が等間隔に立ち、三界万霊塔や仙人権現塚などの古い石碑も数多く見られ「有耶無耶の関跡」の標柱が見られます。
磐梯颪一夜二夜と湖寝せず 渡部 柳春
しぐれふるみちのくに大き仏あり 水原秋桜子
花山峠は、仙台藩と秋田藩を結ぶ山越えの道の一つ子安街道(宮城県・秋田県)にあった峠です。藩政時代には両藩の経済交易で非常に賑わいましたが、険しい山を越えるので馬行不能で山麓の背負子衆の活躍する舞台ともなりました。仙台領からは仙台鍬、鍋、木綿白糸、魚介類などが多く、秋田領からは曲物や漆器、桜皮細工などが運ばれました。
仙台藩側の麓には寒湯御番所があり、関所門や役宅、検断所跡などに往時の面影を見ることができます。宮城県側の花山村には、国立少年自然の家や、温湯、湯の倉、湯浜の温泉地があり、幕末の剣術家で北辰一刀流の祖千葉周作の生誕地と伝えられ、草木沢荒谷に出生地跡の碑が立っています。
安達太良とその空残し牧閉す 柏原 眠雨
山に雪来し阿武隈の川の音 堤 靱彦