堀切峠のちかくには標高555メートルの小さな山、日本国があります。山名の由来は、蘇我氏に殺された崇峻天皇の皇子が越ノ国に逃げたのち羽黒山に移られますが、晩年この山に登り遥か飛鳥の方角を指し、「これより彼方、日本国」と仰せられたことによると伝えられています。この付近には古代越ノ国の渟足柵や磐舟柵などがあったと伝えられ、日本国の山の頂からは、鳥海山、月山など出羽の山々や朝日、飯豊連峰が間近に眺められます。飯豊の名前の由来は、山容が豊かに飯を盛る形に似ているからだという説があります。
月山が見えて励めり夕田植 水原秋桜子
拍手を打てば霧荒れ湯殿山 青柳志解樹
院内峠(雄勝峠)は、羽州街道秋田玄関口にあたるところにある峠です。1602年(慶長7)秋田藩主となった佐竹氏は、入部の翌年、山形最上氏との境に新しい峠を開削させたのがこの院内峠です。県境を隔てる山々は、雄物川と最上川の分水嶺で、往時、院内峠には大きな杉が二本あったといわれ杉峠とも呼ばれ、佐竹氏や津軽氏の参勤交代の道として整備され、さらに徳川幕府の命によって1604年(慶長9)には、峠の前後に一里塚が設置されました。
1606年(慶長11)には秋田藩の財政を長年支えることになる院内銀山が開坑され、全国津々浦々から鉱夫が集まり、最盛期には二万人を超える銀山の町として栄え、峠はおおいに賑わいましたが、1921年(大正10)の休山以降衰退しました。
萩乱れ羽州街道番所跡 高橋 喜悦
秋時雨木地師に天正のお墨付 福田 蓼汀
松ノ木峠は、秋田県雄勝町と鳥海町の境矢島街道にある標高六四四メートルの鞍部にある峠です。院内銀山が阿仁銅山(阿仁町)や松岡銀山(湯沢市)とともに栄えたのは開坑から2百年を経た1842年(天保13)頃で、当時の銀山町の戸数四千、人口1万5千人以上は久保田(秋田)城下をしのいだと伝えられています。
羽後湯沢闇に父母絵燈籠 高嶋藤之助
傘さして花野泥湯にひと一人 高田 貴霜