国見峠は、古代から陸奥と出羽を結ぶ秋田街道にある峠で、幕府巡検使や御馬買役人が通行するなど盛岡藩と秋田藩を結んだ峠で、秋田藩士は江戸に行くときは季節を問わずこの峠を越え吹雪にでもあうとその行路は壮絶を極めました。
またこの峠は幕府や藩の役人のほか、江戸人情旅模様の滑稽譚『東海道中膝栗毛』で知られる十返舎一九や、1907年(明治40)『蒲団』を発表して自然主義文学に一時期を画し、『生』『妻』『田舎教師』『時は過ぎゆく』『一兵卒の銃殺』など赤裸々な現実描写を主張した田山花袋、秋田県角館生まれで平民新聞に時事漫画を描き、新日本画運動を興し、またアララギ派歌人としても著名な日本画家平福百穂らの旅の記録が残されています。
貞任(仕)のかくれ穴てふ葛の花 井上 薫
ふるさとの藜紅葉に嫁迎へ 加賀谷凡秋
五輪峠は、盛岡と仙台の藩境にあった人首街道上の標高556メートルの峠で峠の名の由来は、1590年(天正18)の大崎・葛西一揆で戦死をした武将の子が、父の菩提を弔うために、道を拓き頂上に五輪塔を建てたことによると伝えられています。宮沢賢治の『春と修羅』の舞台となっています。
「がらんと暗いみぞれの空の右側に 松が幾本も生えてゐる 薮が陰気にこもってゐるなかにしょんぼり立つものは まさしく古い五輪の塔だ 苔に生された花崗岩の古い五輪の塔だ」
五輪塔は、下部から方形、円形、三角形、半月形、団形を積み重ねたものです。この五つの形は密教の標幟であって、方形は地を、円形は水を、三角形は火を、半月形は風を、団形は空をあらわしています。この五輪塔は密教で説く宇宙の生成要素である五台をかたどるとともに、その宇宙の根源である大日如来のシンボルとして尊崇されたものです。したがって初めはその形が信仰の対象とされ、堂仏造顕の記念や死者追福のために五輪塔が建立されましたが、のちには舎利塔や墓標など、他の信仰的なものにその形をかたどるようになりました。
五輪塔の周辺は栄枯盛衰の悲哀を感じさせられる雰囲気が立ち込めており、その麓には人首の村(江刺市)があります。江刺の由来ははっきりしませんが、一説に胆沢の前方の意の「イサキ」が転訛したともいわれています。藤原清衡が平泉に館を置く前の居館とされる豊田館跡、父経清の墓と伝えられる五位塚墳丘群など、藤原氏関連の史跡が多く、歴史公園「江刺藤原の郷」でも知られています。
首塚は刑場よりも秋深し 門脇 白風
花桐や川の中まで古戦場 加藤 憲曠