トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
祖父の部屋
2002年3月8日


 私の家には「おじいさんの部屋」と呼んでいる部屋があります。幼かった頃から家を訪れた相応のお客さんを通す、子供心には時空を越えた世界が展開する神秘的な部屋です。
 祖父寧裕は、慶応3年登米最後の館主邦教の子として生まれました。激動の明治初期東京に住まいした親元から離され、淋しい幼少時代を過ごしましたがまもなく上京。東京外国語学校で清国語を学び、明治16年外務省から清国留学を命じられ、さらに明治19年アメリカに留学し、農業、建築をはじめとするさまざまな学問を修めました。帰朝後は、伏見宮の直属通訳官として宮様の側近く仕え日清戦争に従軍しました。

 祖母秀子は、長崎の著名な蘭学者の家として知られる横山家の娘として生まれました。横山家は1640年江戸幕府から世襲制の通詞を拝命した三家の一つで、代々勝れた人材を輩出し、日本外交の第一戦を担った家です。秀子の父貞秀は初代長崎税関長、長崎県参事(知事)、大蔵書記官、東京海上火災取締役を歴任、兄貞嗣は、三池製作所所長を歴任するなど旧三井財閥の重鎮でした。その関係から大隈重信、渋沢栄一、大倉喜八郎、団琢磨など当時の政財界の要人とは親しい間柄でした。
 寧裕と秀子の媒酌人は旧仙台藩着座の家に生まれた日銀二代総裁富田鉄之助ですが、結婚祝いに贈られた品や日常生活で使用した思い出の品がほぼ完全な形で大切に保存されてきました。順調な人生を歩むかにみえた二人でしたが、郷里の兄の急逝とそれに伴う生家の混乱と崩壊によって、やむをえず伏見宮の許可を受けて一時帰郷しました。

 台湾にいた伏見宮から再三復帰を促され、その経歴を惜しんだ横山家からも早急な上京を促された手紙が数多く残されていますが、青雲の志を絶った寧裕は、二度と世に出ることはありませんでした。
 東京の屋敷を売り払い家財道具を処分して、今の場所に移り住んだのです。寧裕はひたすら子供の教育と、読書に明け暮れる日々を送りました。書籍は全て東京から取り寄せました。多くの文人墨客が訪れ記念の品を残していきました。
 昭和20年3月寧裕は、死去しました。とりわけ父の嘆きは大きく、悲しみを少しでも和らげようとしたのでしょうか。父は寧裕の部屋をそのまま封印、保存しました。その部屋は時の移ろいを忘れたように、そのままの姿を今に伝えたのです。

 昭和46年父は交通事故に遭い、10数年におよぶ療養生活に入りましたが、歳月は父の惜別の思いを少しは薄れさせたのでしょう。そっと手を付けずにしておいた祖父の遺品の整理を始めました。数万点に及ぶ祖父の遺品は徐々にその姿を現してきました。一つ一つは決して金銭的に価値のあるものではありませんが、明治・大正・昭和初期を生きた当時の知識階級の生活のあとをしのぶには十分な遺品であります。

 父の亡くなった後、私は父の意志を継承し今日にいたっています。整理に伴いそれが物理的に立体化することによって置く場所に苦慮しました。市博物館からは保管場所の提供など言葉に尽くせぬ配慮を頂いています。私の生きている間に何とか整理をしたいと思っています。そしてそれらの一部でも多くの人々に見ていただくことによって、明治・大正・昭和の時代を考えてもらい、将来を考えていくうえにおいての一つのヒントになればそれに過ぐる喜びはないと思っています。岩手県住田町や宮城県豊里町で継続的に行っている「明治黎明展」は、その試みの一つであります。
 それが祖父や父が果たせなかった、社会に対する報恩の証でもあると考えています。