トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
峠・その7(仙人峠・柏峠・山伏峠・来満峠)
2002年12月7日


 仙人峠は、釜石街道(岩手県)のなかでも最大の難所で恐れられていました。遠野盆地から沿岸に通じる峠は、笛吹峠や界木峠もありました。仙人峠はもっとも高度があり急坂で、人馬を苦しめた一日がかりの峠越えでした。仙人神社のある峠は伝説や逸話が豊富で、『遠野物語』には、山中で長い髪を垂らした若い女に出会った話や、猿が石を投げつける悪さをしたなどの話が伝えられています。

  短日や遠野の土間の藁砧     塩川 秀子
  遠野小春畦の小用も見晴しに   中原 鈴代 

 柏峠(岩手県・秋田県)は、秋田領増田から手倉(東成瀬村)を経て仙台領下颪江(胆沢町)に通じる仙北街道上にある峠です。秋田県公文書館資料によると「1681(天和1)五里弐拾壱丁拾四間(手倉ー下颪江)手倉村より境目幡松峠(柏峠)まで山坂難所牛馬不通仙台領下颪江村江出る」とあるように、極めつきの難所で、難関手倉越えの麓は言語道断村の地名になったともいわれています。

手倉越えでは岩の目沢難所といわれた丈ノ倉の断崖や小出川の渡川、ツナギ沢、マタギ坂などの難所が次々と立ちはだかり、藩政時代には相互の交易のために助小屋も置かれるなど歴史を秘めた峠でもあります。

  曲屋に捨蚕臭ひておしら神    桂 樟蹊子
  長き夜の書にも遠野物語     富安 風生

 山伏峠は、盛岡城下から秋田街道の雫石を経て沢内村に入り、湯田から横手に通じる沢街道にある標高543メートルの峠です。「沢内三千石、お米の出どこ」と沢内甚句に歌われた寒冷な高原地帯のここは、わずか三千石しかとれない寒村で、米ではなく身売りをした「およねの出どこ」で、身売りしたおよねを弔う「およね地蔵」が悲しい歴史を今に伝えています。

山伏峠も急勾配で馬は通れず物質の輸送は牛に頼っていました。峠の名の由来は、夏ともなると蚊や虻の群れが旅人を刺して悩まさせていましたが、あるとき山伏がその蚊虻によって殺されたことによると伝えられています。

  遠野路のこんせい様に葛の花    松崎鉄之介
  詩の窓を占む新雪の岩手山     秋元不死男

 来満峠は、三戸城下と毛馬内(秋田県)を結ぶ三戸鹿角街道にある峠で、分水界の山々は来満山と呼ばれ、北から大柴峠、来満峠、不老倉峠と三つの峠がありました。大柴峠を越える来満本街道は尾去沢銅山から長崎御用銅を野辺地湊に輸送する荷駄の道でもありました。来満峠の麓には江戸時代に開坑され、明治・大正時代に全盛を迎えた不老倉鉱山があり、付近には緑青をふく岩も見られます。

  枯漆立ちてここらは奥二戸     相馬 形水
  二戸郡一戸出ル町霧ながら     阿部 完市