トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
四季彩彩−登米地域讃歌− 豊饒大地・登米
2003年1月4日


  遠山に日の当たりたる枯れ野かな(登米町 高浜虚子碑)

 登米町の北側にある小高い丘から遠望すると南にひときわ高い山並みが見えます。「みちのくの阿武隈川のあなたにや人忘れずの山はさかしき」と古今和歌六帖に詠われた蔵王の山々です。

 目を西に移すに従い、泉が岳、船形連峰と続き、さらに高い山並みが見えます。「みちのくの栗駒山のほゝの木は枕はあれど君が手枕」と古今和歌六帖に詠われた栗駒の山々です。それらの連峰に取り囲まれるように広大な仙台平野が広がり、所々に七ツ森、薬莱山などの緑の塊が見えます。七つ森の麓が、原阿佐緒の生誕地宮床です。

  家ごとにすもも花咲くみちのくの
     春べをこもり病みてひさしも   阿佐緒

 360度の眺望を拒んでいるのは、町のすぐ南にある中世葛西氏の居城があった保呂羽城址とその遥か後方に聳える箆岳山です。1250年前大伴家持が「すめろきの御代栄えむと東なるみちのく山にくがね花咲く」とこの国の末永い繁栄を言祝いで詠った、我が国はじめての産金地である小田郡(箆岳)の山々です。

 さて目を東に転じると東には北上の山々が連なり、それに沿うように北上川がゆったりと流れています。行き着く先は港町石巻です。この北上川に沿って多くの人々が行き交ったのです。300年前には松尾芭蕉が石巻から平泉へ、150年前には吉田松陰が憂国の思いを胸に一関から石巻に向かったのです。

 再び目を南に転じると、何と素晴らしい広大な田園が広がっていることでしょうか。しかし、この大地も大崎・葛西一揆の騒乱によって夥しい血が流されました。その悲しい物語が今も伝わっています。また戦後、カサリン、アイオン台風によって大きな被害がもたらされました。しかしここに住む人達は、黙々とそれを克服し、今日を築いてきたのです。花霞がたなびく季節。田園が織り成す四季の移ろい。渡り鳥の乱舞する大地。収穫を喜び、神を敬い、感謝する人々の住む私たちの故郷が豊穣大地・登米です。

  谷深く冬ごもりせし鶯の
     今日の初音に声ぞしるけき (伊達政宗)