しげき野を幾ひと群に分けなして
さらに昔をしのびかへさん(山家集 西行)
四百年前大崎・葛西一撲のおり佐沼城に立て籠もった木村吉清父子を包囲した伊達勢は、三千名の一撲勢を壊滅しその首を埋めたといわれる首壇(迫町)、伊達軍の兵粮を積んだと云われる兵粮山(迫町)、原田甲斐の眠る東陽寺(東和町)、伊達政宗の弟小次郎の眠る長谷寺(本吉郡津山町)、伊達騒動の発端となった登米と涌谷の境界谷地。中世葛西氏が牡鹿・石巻そして岩手県南部を睥睨した保呂羽城址とその菩提寺龍源寺・登米伊達氏菩提寺養雲寺・寺池城址(登米町)、葛西氏縁者と伝えられる稚児が墓(豊里町)、俳句を作る風流人としても知られた第三代横綱丸山権太左衛門の墓(米山町松寿院)、中田町を中心にこの地方に数多い板碑などは栄枯盛衰、諸行無常を今に伝えています。
この地とキリシタンの出会いは製鉄といわれています。登米地域では葛西氏が支配していた中世の頃から少量ながら鉄の生産が行われていました。戦国時代に鉄の需要が飛躍的に伸び、製鉄技術導入のため備中国(岡山県)から招いた技術者がキリシタンでした。製鉄技術の伝術と熱心な布教活動が同時に行われたのでしょう。生産増大による生活の向上は、たちまち多くの信者を集めました。戦国乱世の、殺伐とした環境が、彼らを敬虞な信者にさせていったのでしょうか。しかし穏やかな時代もそう長くは続きませんでした。
改宗を受け入れなかった信者120名が享保年間(1720頃)東和町米川の地で処刑され、経典と一緒に三か所に埋葬されたのです。今も残る三経塚です。米川に接する岩手県藤沢町大籠でも数百人の殉教者を出し、今も、地蔵の辻、首実験台、トキゾウ(徒刑場)沢、ハセバ(架場)などの跡をとどめ、悲話も伝えられています。
かたわらの秋草の花語るらく
滅びしものは懐かしきかな(若山牧水)
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