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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
藤原氏の祈り
2002年3月10日


 1105年、平泉藤原清衡は中尊寺建立に着手しました。清衡の生まれ育った頃のみちのくは、親と子や兄弟が血で血を洗うような激しい戦いが繰り広げられていました。清衡の父が殺された前九年の役、清衡の妻子眷属がことごとく殺され、清衡が命からがら源義家に救いを求めた後三年の役を経て、清衡はみちのくを手中にしたのです。

 その悲劇的で苦難にみちた前半生が、清衡に中尊寺建立を思い立たせたのでしょう。中尊寺建立の趣旨は国家鎮護のためですが、二階鐘楼のくだりには、鐘楼を建立するのは、古来幾多の戦闘で戦死した官軍夷虜の兵士たちの霊を慰めるためだと記されています。
 振り返ってみれば、遠くは奈良時代から幾多の戦いがありました。近くは前九年の役、後三年の役では多くの兵士たちが敵味方に分かれて戦いみちのくの山野にはおびただしい血が幾度となく流されてきました。清衡自身も地獄絵図のような前半生を歩んできたのです。

 そのため、清衡は深い悔悟の上に立って、血塗られたこのみちのくの地を仏教によって浄め、仏国土にしようとしたのです。鎌倉幕府の公式記録である「吾妻鏡」によると清衡は、白河関(福島県)から外ヶ浜(青森県)に至る20日余の行程に、一町ごとに阿弥陀像を描いた笠卒塔婆を立てその中央に一基の塔を建てて寺院とした、これが中尊寺であると記しています。20年の歳月をかけ清衡によって建立された中尊寺は、堀河・鳥羽二代にわたって国家の安泰を祈る勅願寺として、人びとの尊崇を集めるに至りました。中尊寺の落慶法要が行われたのは、1126年3月清衡71歳の時で、その2年後、清衡は苦難に満ちた生涯を閉じています。

 二代基衡は、父清衡の冥福を祈り、千部一日経を前後三回にわたって書写するなど、信心、孝心ともに篤い人物で清衡の理想を正しく継承し、毛越寺の建立に着手、完成を見ないで死去しました。
 その後を継いだのが秀衡です。傑出した武将として藤原三代の権力を結集し、確固たる政治体制を確立した秀衡を作家の大仏次郎は「北方の王者」と評しました。秀衡は鎮守府将軍、そして陸奥守として北方に巨大な政治勢力を築き上げ、宇治平等院を模した無量光院を建立しました。その平泉藤原氏を滅ぼしたのが源頼朝です。

 源頼朝は、平泉藤原氏や義経を滅ぼした冷酷な武将として、悪いイメージをもたれがちですが、理性的に物事を判断する武将でもありました。中尊寺、毛越寺、無量光院など平泉の諸寺院等は、頼朝の命により、その権益は従来通り保護されたのです。さらに頼朝は、困窮の極みにあった秀衡夫人に支援の手を差し伸べるとともに、1195年葛西清重らに平泉寺塔の復旧を命じ、その意を体した三代将軍源実朝は平泉寺院の保全を地頭らに命じています。鎌倉幕府は、1288年平泉諸寺院の修理を始め、この年金色堂の覆堂を完成させるなど、一貫して平泉寺院の修理・保全に力を注ぎました。これは藤原歴代の崇高な心が、平泉を目にして感動した鎌倉武士の心にも通じ、それが頼朝や鎌倉幕府を動かしたのでしょう。

 こうして守られた諸寺院でしたが、残念ながら毛越寺は1226年と1573年の2度の火災で灰塵に帰し、中尊寺も、鎌倉幕府が滅んだ4年後の1337年、火災によって焼失してしまいました。藤原氏が滅亡してから400年後、平泉は仙台領になりますが、仙台藩でも一貫して平泉の保全に力を尽くしています。中尊寺などの杉の古木は遺跡保存の目印として植栽されたものです。

 平泉藤原氏が今日なお尊崇され、彼らの残した文化遺産に多くの人びとが憧憬を抱くのは、中尊寺等の建立に際して藤原氏が捧げた崇高な「祈り」が、時空を超えて人びとの心を惹き付けてやまないからではないでしょうか。