みちのくは古くから歌枕の国、俳枕の国として知られています。シリーズでこれらを辿ってみたいと思います。
勿来関(福島県いわき市)は、「夷(えみし)よ、来る勿(なか)れ」という意味で呼ばれるようになりました。5世紀ごろに設けられた奥羽三関の1つ勿来関は、市内関田関山に勿来関跡の碑が建ち往時の面影を今に伝えています。大和朝廷による奥州平定後は関所の機能を失いましたが、語呂のよさや景観の美しさから多くの人びとの心をとらえ、名歌・秀句をとどめています。
立ち寄らば影踏むばかり近けれど誰かなこその関をすへけん
小八条御息女
東路はなこその関もあるものをいかでか春の越えて来つらん
源師賢
飛ぶ燕勿来越れば陸奥の国 菅原 師竹
この周辺は、勿来海岸、四時川渓谷、仏具山などの景勝地に恵まれ勿来県立自然公園に指定されています。さらに源義家が奥州征伐の際に建立したとされる植田八幡神社、9世紀初頭に創建されたと伝えられる熊野神社などの古刹・名刹が点在します。国宝白水阿弥陀堂は、白木造りで、1160年(永暦1)藤原氏の娘徳姫が亡夫岩城則道の菩提を弔うため建立したと伝えられる藤原様式のもので光堂・蓮沼の御堂とも呼ばれ多くの人々を魅了してきました。宝形屋根はゆるやかなカーブで、当時流行の阿弥陀形式の代表例とされ、本尊は2・6メートルの座像で刀法の浅く滑らかな手法、相貌の豊満さ、衣紋の曲線 の流麗さなど、平泉の仏像を想起させます。市内には勿来関文学歴史館があります。
花まだき勿来や海の音荒ぶ 角川 源義
いわき市の中心地区平は、詩と歌の街です。17世紀の平藩主内藤義泰(風虎)、その子義英(露沾)が平の文学風土をかたちづくりました。芭蕉の知己露沾は「笈の小文」の餞別句「時は冬よしのをこめん旅のつと」や芭蕉の死への悼句「告て来て死顔ゆかし冬の山」で、その親交のゆかしさが知られています。
群馬県出身で人道的・牧歌的な民衆派の代表詩人山村暮鳥(1884〜1924)は、聖公会牧師として大正期の一時期を平で過ごしました。詩集『雲』に光明遍照の世界をイメージした詩を残しました。
岬
岬の光 岬のしたにむらがる魚ら 岬にみ
ち尽き そら澄み 岬に立てる一本の指
白河関を越えた芭蕉は、「心許なき日かず重なるまゝに、白河関にかかりて旅心定りぬ」と『奥の細道』に記したようにこの関は、みちのく入りをした旅人に一種の感慨をいだかせる場所でもありました。市内南部の旗宿に置かれた白河関は、奥羽三関のなかでもこの関は軍事的に重要な役割を担いました。設置は大化以前にさかのぼるといわれています。1189年(文治5)奥羽入りした源頼朝は関の明神に幣を奉ったのち、風流人梶原景季を召して「能因法師の古風思出さるや」と声をかけると景季は即座に、
秋風に草木の露をはらわせて君が越ゆれば関守もなし
梶原景季
と即詠しました。すでにこのころには関の機能は失っていたものと思われます。白河藩主松平定信(1758〜1829)の考証によって関ノ森遺跡が関跡と判明しました。 勿来の関、白河の関は古代から、みちのくの象徴的な歌枕でした。
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