磐梯山(会津嶺)は標高1、819メートル、県のほぼ中央に位置し万葉の時代から多くの人びとを引き付けてきた山です。「天に達する磐の梯」に山名の由来があると伝えられ、1888年(明治21)には、大規模な水蒸気爆発を起こし、461名の犠牲者を出しました。泥流によって堰止められた長瀬川水系の水流は、桧原、小野川、秋元の桧原三湖や、学術上貴重な多彩な変化に富んだ五色沼群を生み出しました。北塩原村には、磐梯噴火記念館があります。
磐梯へ翔けし郭公戻り鳴く 水原秋桜子
会津若松は、戊辰戦争の悲劇でも著名な場所です。鶴ケ城(会津若松城)は会津のシンボルであり、会津の人びとの心のよりところでもあります。1384年(至徳1)葦名直盛によって築かれたこの城は、伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝、加藤嘉明、そして保科正之(のち松平氏と改称)と、日本史に多彩な彩りを添えた戦国武将らが君臨した奥羽の要衝です。幾星霜のなかで大きな悲劇も繰り返された場所でもあります。
安達太良山は、万葉集に「陸奥の安達太良真弓弦はけて引かばか人の我を言なさむ」と詠まれた秀峰で、ここで造られた檀製の弓は都で珍重されました。二本松市、郡山市などにまたがる連峰で周辺には岳、塩沢、野地、横向、中ノ沢などの温泉やスキー場が広がっています。高村光太郎の詩集『智恵子抄』には「智恵子は遠く見ながら言う 阿多多羅山の上に 毎日出ている青い空が 智恵子のほんとうの空だと言う あどけない空の話である」と、都会生活に疲れ果て精神に安定を欠きはじめた智恵子が思いつめた故郷の山です。智恵子の生家のある二本松市は、丹羽氏十万石の城下町で、戊辰の役で新政府軍に抵抗し城とともに玉砕した二本松少年隊で知られています。城跡は霞ケ城公園として整備され、南北には信達平野、西に安達太良山や吾妻山の秀峰、東には南から北へ阿武隈川が蛇行し、遥か遠くには阿武隈山地が連なり「あれが阿多多羅山あの光るのが阿武隈川… 『智恵子抄』」の碑があります。
安達太良に白雲生まれ袋掛 阿部みどり女
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