葛の松原は、福島市飯坂から伊達郡桑折町への西根堰に沿う街道の中間にある松原でした。『撰集抄』によると関白藤原師通の子僧都覚栄が廻国のすえここに庵を結び、「世の中の人にはくづの松原とよばるる名こそうれしかりけれ」と詠み、41歳の生涯をこの地で終えたと伝えられています。『撰集抄』は、霊験や遁世者・往生者の物語、寺院などを収めた9巻からなる鎌倉時代の説話集です。『去来抄』によれば、支考の書に「葛の松原」と命名したのは芭蕉であると伝えており、墓や碑が残っています。『去来抄』は、向井去来(1651〜1704)の俳論書で、「先師評」「同門評」「故実」「修行」の4部で構成されています。去来の芭蕉の随聞記的資料で、「さび」「しをり」「不易流行」などの大切さについて述べた俳論です。
雨もよしあめなきときは月をみる
心になにかくずの松原 松平定信
福島市周辺は陸奥国信夫郡と称され「信夫の山」「信夫の里」「信夫の浦」「信夫の原」「信夫の渡」など古くから親しまれてきました。「信夫摺」は信夫の地の特産品で、乱れ模様の草木染でそれを忍ぶに言い掛けて恋いの思いをひそかに隠し、涙に濡れながらも耐え忍ぶという隠喩に用いられました。1150年前陸奥出羽按察使になった源融(とおる)の「陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れ染めにし我ならなくに」『古今和歌集』で著名です。『伊勢物語』巻頭では、「春日野の若紫のすり衣信夫の乱れ限り知られず」と詠んでおりそれは「陸奥のしのぶもじずり誰ゆゑに」の心ばえであると語っています。
市街地の北方には標高268メートルの信夫山が隆起し緑に覆われた山頂は優れた眺望
を与えてくれます。信夫山は、羽山、羽黒山、熊野山の三峰からなり信夫三山として親しまれ、秀歌・秀句も詠まれてきました。
早苗とる手もとや昔しのぶ摺 芭蕉
なつかしさしのぶの里のきぬたかな 蕪村
相馬は、平将門を祖とする相馬氏の城下町で、また前面に広がる松川浦は松が浦ともいわれた景勝地で万葉集の時代から、多くの秀歌や秀句をとどめました。『万葉集」には、「松が浦にさわゑうらだちま人言思ほすなもろわが思ほのすも」と詠まれています。旗指し物をたて原町市雲雀原で土煙を蹴って催される相馬野馬追いは、勇壮な戦国絵巻として知られています。
真野の萱原(相馬郡鹿島町)は、『万葉集』に『陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを」によって知られています。芭蕉の奥の細道では石巻から、「袖の渡り、尾ぶちの牧、真野の萱原などよそ目に見て」平泉に向かい、曽良の『名勝備忘録』等から、近世には石巻(宮城県)近くの説もあったようです。
伊達の大木戸(国境に設けられた大きな城門)は、下紐の関とも言われ、東北本線、東北自動車道、国道4号線が一束に山狭を抜ける要害の地です。源頼朝の平泉征伐にさいし、藤原泰衡は山腹の西から東南の田野にかけて二重隍を築いて応戦しました。これが鎌倉勢と平泉藤原勢が戦った阿津賀志山の戦いで、二万の軍兵で鎌倉勢を迎え撃った泰衡の異母兄国衡は戦死します。この戦いが、藤原勢が示した唯一の抵抗らしい抵抗でした。大木戸は二重隍の北側にあったと推定されています。芭蕉をはじめ多くの旅人が路を縦横に踏んでここを越しました。
色変へぬ松や自刃の碑のうすれ 平井 改子
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