トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
歌枕・俳枕を行くー宮城3(仙台・宮城野)
2003年11月17日


  
 仙台は伊達政宗が、1601年(慶長6)それまで城を構えていた岩出山から仙台に城を移しました。仙台入城に当たって、政宗は豊かな国の前途、末永い繁栄を祈った和歌を詠んでいます。
 入りそめて国豊かなるみぎりとや千代とかぎらじせんだいの松
 この当時、仙台の地名は「千代」と書いて「せんだい」といっていましたが、政宗はそれを仙臺(台)に改めています。
 仙台の命名の謂れは、唐の詩人の七言律詩「同じく仙遊観に題す」に求められます。紀元前2世紀、漢の文帝は、仙台ともいわれた仙遊観という壮大な宮殿を建造しました。その素晴らしさを讃え、古くから中国で伝説上の存在として知られた仙境崑崙山の五城十二楼の宮殿になぞらえて詠んだのが、次ぎの詩です。


 同題仙遊観    同じく仙遊観に題す

 仙臺初見五城楼   仙台初めて見る五城楼
 風物凄凄宿雨収   風物凄凄として宿雨収まる
 山色遙連秦樹晩   山色遙かに連なる秦樹の晩
 砧聲近報漢宮秋   砧声近く報ず漢宮の秋
 疎松影落空壇淨   疎松影落ちて空壇浄く
 細草春香小洞幽   細草春香ぐはしくして小洞幽かなり
 何用別尋方外去   何ぞ用ゐん別に方外を尋ねて去るを
 人間亦自有丹丘   人間亦た自ら丹丘有り


 仙台の城下町は、広瀬川によって育まれた標高50メートルから30メートルの小高い河岸段丘地につくられました。このため一部を除いて広瀬川の洪水からまぬがれることができましたが、一方では深い谷の下にある広瀬川から水を汲み上げるのが大変でした。そこで考えられたのが四ツ谷用水です。広瀬川上流の郷六地区に堰をつくりトンネルを掘って、城下町北縁部に本流が流れ込むようにした水道です。幾多の困難を克服しながら長い年月をかけて完成した四ツ谷用水は城下町での総延長は40キロを越え、仙台に欠くことのできない生活用水として、小川が町中を縦横に流れ、人びとの生活に豊かな恵みをもたらし、郊外の広大な農地を潤しました。仙台城下は「水の都」でもありました。
 宮城野は、古くから多くの秀歌・秀句をとどめてきた場所です。『源氏物語・桐壺』には、「宮城野の露吹き結ぶ風の音に小萩がもとを思ひこそやれ」と若宮を小萩にたとえてその身を案じた和歌があり、その本歌が『古今和歌集』にある「宮城野のもとあらの小萩つゆをおもみ風をまつごと君をこそまて」です。
 藩政時代には、宮城野は苦竹村、南目村の入会の地に定着、伊達政宗は国分寺跡に薬師堂を再建、「木の下」という地名になって親しまれました。仙台藩は野守を置いてこの景勝地の保存を行うとともに、藩主の鷹狩の地としての役割を担いました。明治になってここに陸軍の練兵場が置かれ、現在は陸上競技場などになっていますが、薬師堂周辺に往時を偲ぶことができます。
  荒城の歌碑にかすみて広瀬川 桂 樟蹊子