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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
道の文化史
2002年3月12日


 道の歴史は、人類の歴史でもあります。古代の東北の道は、東国に至る道として開かれてきた東山道と東海道があります。
 やがてこの道は律令国家の官道として整備され、東山道は東国を経て陸奥国の国府多賀城に達する官道として、蝦夷に備える道として重視され、蝦夷との戦いによってさらに北上し、軍団や兵糧が北上する軍道として重きをなしてきました。官道はまさに国家の意志の体現でもありました。一方、道は官道にとどまらず、人びとの活動領域の拡大によって縦横に発達してきました。

 平安時代になると、新たに台頭してきた武士によって道の維持と管理が進みました。平泉藤原氏は、商業や交通に着目し、南は白河関(福島県)から北は外ケ浜(青森県)に至る官道を整備しました。『吾妻鏡』が記す中世奥羽の幹道「奥大道」です。
 奥大道沿いには宿が発達し、宿には安積宿(郡山市)の六日市場や河原宿(仙台市)の五日市場のように人びとが集まる市場があり賑わっていました。そのほかにも往来道といわれる道が各地に開かれ、道は官人通行の道ではなく、武士や庶民の道・物資輸送の道として変質していきました。道は都への道でありましたが、地域の道として隣国への道として発達を遂げるようになりました。

 戦国時代になると軍事的必要性から、要地と要地を結ぶ道が開発され整備されます。福島から板谷峠を越えて米沢に至る米沢道は、伊達氏が信達地方から米沢に居城を移したときに設けられた伊達氏の道であり、鹿角街道は、南部氏の鹿角進出の道でもありました。 近世の道は幕府や藩の統治下、江戸や城下町を軸として計画的に開発整備されました。
 近世の道筋が決まるにつれて一定区間ごとに宿駅も設けられ、宿駅は宿駅の住民の伝馬役負担によって宿駅が維持運営することを原則とするようになりました。特定の街村に宿駅を設け宿民を居住させました。近世初期には集落の街道の両側に短冊型の屋敷を設け、そこに帰農武士や農民の次三男などを集め街村集落を編成しました。いま見ることのできる旧宿場の家並景観はこうしてつくられました。宿民が伝馬役を負担するかわりに宿場は次第に町場となっていきました。 

 街道は通行する人を重視して整備が進められました。参勤交代や幕府の役人が通行する幹道は特に重視されました。城下の景観は藩の権威を高めるうえからも重きがおかれ、その美化が図られました。街道沿いの賑わいを維持するために木綿販売の特権を与え、農民には畳敷を認めるなど街道の景観は藩にとって大切な要素でした。

 宿場には大名らが宿泊する本陣や脇本陣、伝馬役や物資輸送などの宿場業務を差配する問屋などが置かれました。中心部には高札場があって禁令や駄賃が掲示され、城下町同様に出入口に木戸があって夜間は閉ざされました。藩境の関所あるいは番所では人改め、物改めが行われ、通行人は不自由を強いられましたが、一方では通行の安全の担保でもありました。宿場の中には茶屋が一軒、二軒という宿場もあり、そういうところには本陣もなかったので、御用の諸役人は村役人の家に、藩主は御仮屋がなければ大肝煎などの居宅で休息や宿泊をしました。江戸中期になると、武士や文人の旅に加え庶民の旅も盛んになり、農民は伊勢講などを組織して、順番に小集団で伊勢参詣や西国巡礼の旅のため街道を上りました。近隣の社寺参詣や景勝地巡りの旅が盛んとなり、旅の安全を祈願し、沿道に道標が立ち、名所旧跡や参詣地を巡る旅姿が街道の風景となりました。

 近世の東北には、江戸千住を起点に白河(福島県)から三厩(青森県)に至る奥州街道と、奥州街道桑折(福島県)から左に分岐して奥羽山脈を越えて奥州街道油川宿(青森湊の前進)で合流する羽州街道の二つの骨格ともいえる街道があり、街道から、枝道ともいえるものが各地に伸び、多くの人と物の交流を支えてきたのです。