トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
歌枕・俳枕を行くー宮城5(松島・塩竈)
2003年11月18日


  
 塩竃、籬島も古くから親しまれてきました。塩竈は、みちのくでも屈指の歌枕とされ。塩竈という地名から塩焼く煙りが詠まれるようになりました。籬島は塩竈に付随した歌枕です。『古今和歌集』には、「陸奥はいづくはあれど塩竃の浦こぐ舟の綱でかなしも」「わが背子をみやこに遣りて塩竃のまがきの島のまつぞこひしき」などの和歌があります。
  絢爛の祭船ゆく千賀の浦       岩崎 洋子

 松島一帯は古くから開け日本を代表する縄文遺跡の宝庫で、中世は奥の高野と称せられた霊場です。また林春斎の『日本事績考』に、厳島・天橋立・松島を「三処奇観」と記されて以来日本三景の一つといわれるようになりました。松島は、「松しまや大淀の浪に連枝の月 井原西鶴」、「武蔵野の月の若ばえや松島種 桃青(芭蕉)」などの句を入集した大淀三千風の『松島眺望集』によって大きく喧伝されました。さらに松尾芭蕉の奥の細道紀行の「抑(そもそも)ことふりたれど、松島は扶桑第一の好風にして……」によってその名声を盤石なものにし、多くの人々によって秀歌・秀句をとどめました。雄島には、鳥羽院が見仏上人に「本尊器物」を与えた伝承を記した「頼賢碑」があります。芭蕉が「草の庵閑に住みなし、いかなる人とはしられずながら、先ずなつかしく立ち寄るほどに」と述べた松吟庵は、1922年(大正11)消失しました。『詞花和歌集』には清原元輔の「松島の磯にむれゐる蘆鶴のおのがさまざまみえし千代かな」や『後拾遺和歌集』には源重之の「松島や雄島の磯にあさりせし海人(あま)の袖こそかくはぬれしか」など松島や雄島を詠んだ和歌が数多く残されています。
  藻塩焼の禰宜の木沓の黒漆に   平塚よし子