トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
歌枕・俳枕を行くー宮城6(金華山・石巻)
2003年11月18日


  
 金華山は、石巻に隣接する牡鹿半島の先端部の東部に位置し、周囲26キロ、全島がほぼ花崗岩の島です。標高500メートルのこの島は、垂直分布の植生の見られる学術的に大変貴重な島でもあります。平泉藤原氏の時代真言宗大金寺を中心に栄えましたが、火災で焼失、現在は黄金山神社として尊崇をうけています。
17世紀に大伴家持の「すめろきのみよ栄えんと東なるみちのく山にくがね花咲く」の地に擬定され、大淀三千風らによって喧伝されました。
1689年(元禄2)、石巻を訪れた松尾芭蕉は「奥の細道」にその繁栄の様子を、「こがね花咲くとよみて奉りたる金華山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどい、人家地をあらそひて、竈の煙立ちつづけたり」と記しています。芭蕉の訪れた頃の石巻河口の右岸にある石巻村は人口2300人、本町、中町、横町があり、港を管理する藩の行政機関や水運業務の機関が集中していました。本町には米倉15棟のほか役人会所、穀廻蔵があり、中町には代官所が、そして裏町には藩主の休憩所である御仮屋、穀倉、材木蔵などがありました。
 門脇村は人口1100人、本町、中町、砂場町があり造船荷役,配船などの港湾管理、北上川河口の出入り船の警護の機能を持っていました。北上川左岸の湊村は人口1600人、本町、東町、新町、田町があり、倉庫群の町でした。
住吉町は、人口1300人、商家と米倉の町であり、穀改番所が設けられ石巻港を警備する任務を持っていました。1719年(享保4)仙台藩儒者佐久間洞巖はその著「奥羽観蹟聞老誌」に、石巻の町は店が立ち並び、漁業、商工業が発達し、大坂、博多、酒田と肩を並べる天下第一のも名とであると記しています。