トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
歌枕・俳枕を行くーー山形1(最上川・袖ヶ浦・阿古屋の松)
2003年11月18日


  
 山形県は、南北に連なる奥羽山脈を境に宮城県と接し、北は丁岳(ひのとだけ)山地、神室山地を隔てて秋田県に南は吾妻連峰と飯豊(いいで)連峰を挟んで福島県、南西は新潟県と接し、北西は日本海に面しています。中央西よりを南北に横たわる出羽山地を境にして、日本海に面した庄内平野を中心とする庄内地方と内陸地方に大別され、内陸地方は米沢盆地、山形盆地、新庄盆地を中心とした置賜、村山、最上の三地域に分けられます。県内を貫流する最上川は『古今和歌集』や斎藤茂吉など多くの歌人、俳人たちに詠まれてきました。最上川の流域面積は県土の七五パーセントを占め「一県一河川」という特性を有しています。最上川は多くの支流を集めて複雑極まりない長流で上流は狭流、急流のため危険の伴う水運でもあり、米や紅花などが酒田港に集まり、西廻り航路で物資は京都や大坂さらに江戸へ運ばれました。芭蕉は『奥の細道』で最上川について、「最上川は陸奥より出でて、山形を水上とす。碁点、隼などいふ恐しき難所あり。板敷山の北を流れて、果は酒田の海に入る。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。これに稲つみたるをや稲船といふならし。白糸の滝は青葉の隙々に落ちて、仙人堂岸に臨みて立つ。水みなぎって舟あやふし。」と記しました。
  最上河上れば下る稲舟のいなにはあらずこの月ばかり
                     『古今和歌集』
    五月雨をあつめて早し最上川  芭 蕉
  暑き日を海に入れたり最上川  芭 蕉
  最上川そこを逃げ場の稲雀   鷹羽 狩行
    最上川河口左岸袖の浦(酒田市宮野浦近辺)は、古くから港町として発展し、『義経記』の「酒田湊」です。『拾遺和歌集』の「君恋ふる涙のかかる袖の浦はいはほなりとも朽ちぞしぬべき(よみ人知らず)」のように衣の袖が裏まで涙に濡れるのを浦にたとえ、それが地名に結びつけられたものです。井原西鶴の『日本永代蔵』には酒田の豪商鐙屋(あぶみや)の繁栄ぶりに描かれているように、「入船千艘、出船千艘」といわれる繁栄をしました。芭蕉は『奥の細道』の旅途、伊東不玉宅に滞在、象潟を訪ね、また、鐙屋玉志亭で句会を興業、『真蹟懐紙』が本間美術館に残されています。   袖の浦にたれもかくれば海人ならで泣くを藻塩といふにざりけり 壬生忠岑
  あつみ山や吹浦かけて夕涼み  芭蕉
  象潟や料理何食くふ神祭  曽良
 阿古屋の松は、山形市平清水にある曹洞宗千歳山万松寺の松とされ、この松にまつわる阿古屋姫伝説が陸奥に左遷された都の風流人藤原実方と結びつけられ、歌枕として知られるようになりました。経過は、『古事談』や『平家物語』の語るところです。謡曲「阿古屋松」は『平家物語』を主な典拠にしています。
  みちのくのあこやの松も人ならばしのぶ昔のことや問はまし
                         一条兼良