トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
最果てのロマン
2002年3月20日


 津軽半島の突端の竜飛崎は、青函トンネル本州側の入り口で、晴れた日には北海道の陸地も間近に見え、海峡の激しい流れを目にすることができます。海が荒れる秋から冬にかけては、帆船でこの流れを乗り切ることは至難の業で、風待ち、帆待ちが多い難所でした。北海道の松前と青森の三廐を結ぶ帆船ルートは、航海そのものが目的地付近に漂着するような形をとっていたため、風待ちに日時を費やしたこともあります。松前藩の参勤交代にはこのコースが使われ、船が無事に三廏に着くと狼煙が上げられ、松前側では、藩士一同、登城して主君の無事を祝いました。1625年(寛永2)津軽二代藩主信校のとき、善知鳥村と呼ばれていた一寒村に青森港が開かれました。1869年(明治2)蝦夷は北海道に改められ、函館に開拓使が置かれ東京・青森からの行路が設定され、開拓のための人や物資の積み出し港として青森港は隆盛を迎えました。

 1873年(明治6)青函連絡船が定期化され、1908年(明治41)3月イギリスに発注した新鋭船比羅夫丸の就航によって本格化しました。1924年(大正13)には、船内にレールを敷き、貨車をそのまま収容して運行、1926年(大正15)には貨物専用船も就航、本州と北海道を結ぶ重要な動脈として大きな役割を果たしました。しかし、太平洋戦争が始まるとアメリカ海軍によって津軽海峡には多くの機雷が流され、1945年(昭和20)7月14日と15日には青函連絡船が激しい攻撃を受け11隻が沈没、大きな打撃を受けました。戦後、連絡船再興の第一歩として就航したのが洞爺丸ですが、1954年(昭和29)9月台風のため転覆事故を起こし1、155名の犠牲者を出し、同時に4隻の連絡船も遭難し全国民に大きな衝撃を与えました。その後、この教訓を生かし新造船がつくられ全盛時代を迎えますが、青函トンネル完成とともに1988年(昭和63)3月に廃止されました。比羅夫丸就航以来56隻の連絡船で15、545万人の旅客を運びました。

 この長い海峡の歴史はさまざまなドラマも生みました。1852年(嘉永5)吉田松陰は竜飛岬から海峡を航行する外国船を見て、北方防備の必要性を痛感、一詩にそれを託しました。江戸後期の尊王家高山彦九郎は、蝦夷地へ渡るため竜飛を訪れ、天候に恵まれず引き返したことを「北行日記」にとどめました。太宰治は、風土記的な紀行小説「津軽」で、岬の印象を「ここは本州の極地である。この部落を過ぎて路はない。あとは海にころげおちるばかりだ」と記しています。結城哀草果は、この岬に立った印象を歌集「津軽行」に記し、厳しい自然の中に生きる人間の生活をうたいました。
 竜飛の南東に位置する三廏は、蝦夷地に渡る港として知られ多くの人々が海峡を越えて行きました。頼山陽の子息頼三樹三郎は「松前へ航する二首」の絶句を残しました。また、石川啄木は「船に酔ひてやさしくなれるいもうとの眼見ゆ津軽の海を思へば」をとどめました。本州最北端の大間崎の南東下風呂温泉は、井上靖の「海峡」の最終舞台として“海峡の宿”として一世を風靡しました。下北半島の北東端の岬がアイヌ語で絶壁の岬といわれる尻屋崎です。

 対岸の函館には、貴重な植生の宝庫である函館山があります。函館の東亀田半島の南西端に汐首岬があります。1925年(大正14)に訪れた北原白秋は「とうとうと波騒ぐ汐首岬、鮮やけし、雑草の青、みどり……」とうたいました。島崎藤村は、「突貫」の中で1904年(明治37)7月北海道へ渡る藤村を迎えた秋田雨雀、鳴海要吉との出会いを話し、この旅行を素材に小説「津軽海峡」を発表しました。水上勉は、下北半島の尻屋崎に難破船で流れ着き拾われた女主人公の数奇な半生を描いた「北国の女の物語り」を、そして、人間の心の奥底にある残酷さと優しさを織り混ぜたすぐれた犯罪小説「餓餓海峡」を発表しました。このほか、上田広の「津軽海峡」、三浦哲郎の「白夜を旅する人々」、吉村昭の「破獄」、長田幹彦の「零落」、五木寛之の「海峡物語」「青春の門 放浪編」、開高健の「ロビンソンの末裔」、船山馨の「北国物語」、岩川隆の海底トンネル工事を描いた「海峡」などがあります。
本州と北海道を結ぶ津軽海峡は、喜びも悲しみも行く年月を隔てわたしたちに限りない夢とロマンを語り続けています。