男鹿半島の門前は、「なまはげ」の発祥地として知られています。大晦日の夜、出刃包丁を持った鬼の面をかぶった二人以上の男性が組みになり村を回り、泣く子、金を使う子、勉強をしない子、怠け者を懲らしめようと、家中を暴れ回って帰る民族行事です。なまはげは「生身剥ぎ」の転化したもので、冬の寒いとき、長い間火にあたっていると手や脛に火形がつく。その火形のついた生身を「剥ぐぞ」と脅かし反省を求める民俗行事です。当日は、門前の赤神神社や集落ごとの鎮守の神様の前で、お祓いを受けて村々にくだる風物詩です。
笠はづす亡者踊りの汗かかず 安藤五百枝
八郎潟は、東西12キロ、南北27キロ、面積220平方キロで琵琶湖に次ぐ大湖で、汽水湖のため魚介類も豊富で、ワカサギ、ボラ、フナ、シジミなどの宝庫でした。最深部でも4・5メートルと浅い湖だったため干拓は早くから構想されましたが、具体化したのは第二次世界大戦後で、1957年(昭和32)国営事業として、農林省がオランダのヤンセン教授、フォルカー技師の指導のもとに着工、172平方キロの干拓地として誕生したものです。
これによってかっての八郎潟は、南部に残った調整池と周囲の捷水路(洪水による水を流れやすくするため最短部を結んだ直線水路)だけが、往時の面影をとどめています。
湖の雑魚煮れば湖草麗かに 石井 露月
開拓の墓睦みあい雪解風 木内 彰志
雄物川は、奥羽山脈の山塊である神室山地に発し、皆瀬川などと合流して横手盆地を北流し、玉川との合流地点で西に流れ、出羽山地を蛇行しながら秋田平野に入り日本海に注いでいます。名称は船で米などの貢物(御物成)を運んだことから御貢川とよんだことに由来します。江戸時代には河川交通が栄え、流域の米が土崎湊に運ばれ、そのため新屋、刈和野、神宮寺、角間川などの河港が発達しましたが、1905年(明治38)の奥羽本線の開通によって衰退しました。漁種が豊富でかってはサケ、カワヤツメなどの漁が盛んでした。台風による洪水や鉱毒水の被害にも悩まされましたが、近年はダムの建設や農地の改良も行われています。河口付近の雄和町には、石井露月の記念館や、「花野ゆく耳にきのふの峡の声」などの句碑があります。
田植すみ夕焼ながす雄物川 水原秋櫻子
秋風の油紅なす雄物川 加藤 楸邨
角館は田沢湖近く、雄物川上流と檜木内川と玉川の合流点にある城下町で、1602年(慶長7)葦名義勝(義弘)の城下町として基礎が築かれ、のち佐竹北家の城下町として栄えました。葦名義勝は磐梯山麓摺上原の戦いで伊達政宗に撃破された葦名義弘です。そのあと、秀吉から常陸国江戸崎領4万5千石を与えられますが、関が原の戦いには参加せず、不戦の科により、徳川家康から所領を没収され、兄佐竹義宣の家臣となって秋田に移り、角館1万6千石を領しました。角館はみちのくの小京都ともいわれ、武家と町屋を分けた整然とした家並みは、往時の面影を色濃く残しています。
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