連歌をルーツとする俳句の底流には、高次のユーモアを生かす要素が含まれていましたが、俳聖松尾芭蕉(1644〜94)は言葉の深い余韻を捉え、俳諧をして風雅のまことを極める域に高めた「蕉風」を確立しました。
天明期には与謝蕪村(1716〜83)が正風の中興を唱え、感性的・浪漫的俳風が生み出されました。蕪村は文人画で大成するかたわら、星野巴人に俳諧を学び、浪漫的俳風を生み出し芭蕉と併称されています。
明治20年代に入ると正岡子規(1867〜1902)が、俳句革新に挺身し、写生俳句を主唱し文芸性の高い俳句というものをを力説しました。正岡子規は松山市(愛媛県)出身で、日本新聞社に入り、俳諧を研究しました。雑誌『ホトトギス』に拠って写生俳句・写生文を主唱しました。また、「歌よみに与ふる書」を発表して短歌革新を試み、新体詩・小説にも筆を染めました。
河東碧梧桐(1873〜1937)は定形・有季を排して自由律俳句に進みました。河東碧梧桐も松山市(愛媛県)出身で正岡子規の俳句革新運動を助け、高浜虚子と並んで頭角をあらわしました。子規没後新聞『日本』の俳句欄の撰者を継承し、ついで『日本及日本人』の「日本俳句」の撰者となりました。1906年(明治39)から1911年(明治44)にかけて2回にわたり全国を遊歴しましたが、写実と個性発揮と接社会的とを説く新傾向俳句運動は燎原の火のごとく全国を席巻しました。
1915年(大正4)中塚一碧楼らと「海紅」を創刊、やがて季題と定型にとらわれない自由な表現へ進みました。主な著書は、『新傾向句集』『八年間』『三千里』『子規を語る』『日本の山水』があります。
それに対して高浜虚子(1874〜1959)は、碧悟桐を中心とした新傾向俳句が、大正初年に至り著しく散文化し俳句から逸脱し始めたのに対し、子規の後継者として俳壇復帰を決意し、定型・有季に拠って花鳥諷詠の「ホトトギス派」を俳壇の主流としました。
花鳥諷詠の考え方を要約すると、
(1)素材として、花鳥風月を中心素材とする
(2)俳句に盛る情は、軽く、愉快に、楽しいものとする
(3)写生句を続けて作ることで、現実をあるがままに観ずるという人生観を養うということです。
俳句雑誌『ホトトギス』は、1897年(明治30)正岡子規が主宰・柳原極堂編集下に松山市で発行されました。翌年、東京に移し高浜虚子が編集、俳句の興隆を図り、写生文・小説などの発達にも貢献し現在にいたっています。
東北各県の俳句会も多岐に発展してきました。地域に大きな影響を与えた俳人の足跡を辿ってみたいと思います。
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