福島県の俳句史は戦国時代に溯り、草創期には、白河、平、会津の諸藩主(結城直朝、内藤風虎、保科正之)によって俳諧が嗜まれていました。のちに芭蕉の行脚と風虎の次男内藤露沾(1655〜1733)派が大きな影響を与えました。内藤風虎(1619〜85)は平藩主で、きわめて好学心があり多くの和漢書を蒐集しました。子義英に当てた23箇条の家訓は、大名家訓の一典型として知られています。和歌・俳諧の道にも長じ、和歌集として後水尾天皇の勅点を請けた、風虎の官名左京大夫にちなみ『左京大夫集』と名づけた8巻を遺しています。また、俳人で国学者の北村季吟(1625〜1705)らと交わり、若き日の松尾芭蕉もその庇護をうけるなど、俳壇の保護者として有力な存在でした。露沾は嫡子でしたが1682年(天和2)これを辞し、のち風流三昧の一生を送り、風虎サロンの後継者として活躍しました。
梅咲いて人の怒の悔もあり 内藤 露沾
下野守でもあった露沾の墓は鎌倉光明寺(神奈川県)にあり、松ケ丘公園にその句碑があります。
大須賀乙字(1881〜1920)は、相馬市の生まれで父は旧制二高教授、奥羽百文会に参加し、自然帰一の俳句と俳論を展開しました。
妙高の雲動かねど秋の風 大須賀乙字
その他、三森幹雄(1830〜1910・蕉門)、久米三汀(1891〜1952、本名正雄・小説家)、道山草太郎(1897〜1972石鼎系「桔槹」経営の俳人)、佐藤南山寺(1015〜74「楽浪」主宰)らが俳壇を発展させました。
春雪に古るは明治の出窓かな 久米 三汀
宮城県においては、芭蕉が訪れたころ伊勢国(松阪市)の富豪大淀三千風(1639〜1707)が、松島の雄島に庵室をつくり、15年居住して作句に励んでいました。井原西鶴の跋(おくがき)で「仙台大矢数」として出版、全国行脚や多くの著作を残し、門弟を育てるなど多彩な活動を展開しました。松窓乙二(1755〜1823)は、白石市千手院住職として蕪村とも交流し、当時の東北の俳諧に大きな影響を与えました。
ともすれば菊の香寒し病みあがり 松窓 乙二
1893年(明治26)子規の奥州旅行の影響を受けて新俳句運動が興り、旧制二高を中心として句会「奥羽百文会」が結成され、佐藤紅緑(河北新報記者)、佐々醒雪(主宰・二高教授)のち乙字、若尾欄水が活躍しました。また、登米町在住の菅原師竹(1863〜1919)、安斎桜かい子(1886〜1953)は、『日本』で頭角を顕し地域俳壇に影響を与えました。
舌に残る新茶一露や子規 菅原 師竹
晩学静か也杉は花粉を飛ばす 安斉桜かい子
阿部みどり女(1886〜1980)は、『駒草』を主宰するとともに「河北俳壇」の選者として長く活躍しました。
重陽の夕焼けに逢ふ幾たりか 阿部みどり女
また、1951年(昭和26)には農村俳句、家庭俳句をスローガンに俳句雑誌『みちのく』(主宰 遠藤悟逸 編集長 原田青児)が創刊され、今日の礎を築いています。
独り酌む春爛漫の窓明けて 遠藤 梧逸
角巻を展げて雪を払ひをり 原田 青児
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