岩手県には、大淀三千風がその著・日本行脚文集(1689・元禄2)に「この翁は‥花実兼備の雄哲なり」と記した太田幽閑が盛岡で活躍しています。
松島や世門の耳に月颯々 太田 幽閑
また高橋東皐は蕪村に師事し、蕪村の別号春星亭を授けられ、盛岡では小野素郷が活躍しています。
うどの芽や束ねをとけばもえんとす 高橋 東皐
春の月鶏裂けばくもりけり 小野 素郷
明治に入ってからは、岩手俳諧史を書いた小林文夫、高橋青湖らが活躍しました。
岩手颪ごうごうと枯野傾けり 高橋 青湖
青森では八戸藩七代藩主南部信房が、1783年(天明3)江戸屋敷で、蕉風俳諧入門の典例をあげるなど旧派の俳句も栄えてはいましたが、明治に入ってから子規と交流のあった佐藤紅緑(1874〜1949)によって流布されました。紅緑は1893年(明治26)上京、郷土の先輩である陸羯南(くがかつなん)の家に寄宿しました。陸は、新聞『日本』を創刊し、社長兼主筆として徳富蘇峰とともに、当時の言論界のリーダーとして活躍していました。『日本』の俳壇は子規の担当であったことから、紅緑は直接同僚である秋田県出身の石井露月とともに子規に俳句を学びました。1859年(明治28)一時青森に帰郷、「東奥日報」に自作の句を発表し、日本派俳句を唱導、弘前に転任してきた矢田挿雲(香川県出身)とも親交を結んでいます。
知らぬ字は字引を引いて冬籠 佐藤 紅緑
大塚甲山(1880〜1911)は、子規と交流、内藤鳴雪(愛媛県出身)にも師事し、後に反戦詩や評論活動に転じました。鴎外らとも親交がありましたが貧窮のなかで没しました。
憎まるる地主の蔵や今年米 大塚 甲山
秋田は幕末にすぐれた思想家平田篤胤、佐藤信綱を輩出するとともに、三河の菅江真澄がこの地で多くの人々に敬愛されながら地誌等を記し、角館で没した風土を有する場所です。安藤和風(1866〜1936)は、芭蕉・鬼貫・蕪村・一茶の俳諧に学び、独自の句風を確立し、また郷土史家としても活躍しました。
稲妻や水にうなづく薄の穂 安藤 和風
石井露月(1873〜1928)は文学を志して上京、子規の知遇を得て『日本』の記者となりました。中央俳壇に存在を示しながら秋田の島田五空と『俳星』を創刊し、東北俳諧の振興に力を尽くしました。
雪山はうしろに聳ゆ花御堂 石井 露月
島田五空(1875〜1928)は秋田市生まれ。句は佐々木北涯に学び生涯にわたって露月と親交し、秋田で重きをなしました。
卯の花や勤行すぎて夕眺 島田 五空
山形では栗田九霄子(1908〜77)が畑耕一、武田鴬塘に師事し「胡桃」主宰として、県俳壇で指導的な役割を果たしました。
濁流や胡桃は青く葉に紛れ 栗田九霄子た。
名和三幹竹(1892〜1975)は、乙字の門人で、のち大谷句仏上人の知遇を得て、『懸葵』の編集と雑詠選者となり、京都俳壇でも重きをなしました。
蓮如忌や見知り顔なる京門徒 名和三幹竹
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