みちのくの都多賀城は北畠顕家の死をもって急速に人々の脳裏から、日本史の表舞台から消え去っていくのですが、ここにおよそ600年間みちのくの都が置かれたということは、たくさんの都の人たちが多賀国府の役人としてやってき、また、多くの旅人がみちのくを訪れてみちのくの美しさを愛でた歌を残しています。いまからおよそ一千年前の歌人能因法師、百人一首には、
嵐ふく三室(みむろ)の山のもみぢばは
龍田の川の錦なりけり (後拾遺和歌集)
という歌を残し、また、歴史に名高い、
都をば霞とともに立ちしかど
秋風ぞ吹く白河の関 (後拾遺和歌集)
と詠んでいますが、この能因法師はみちのくを二度訪れ、また、全国各地を行脚し、晩年、和歌の手引書を著しています。そのなかで能因は、みちのくを山城、大和に次ぐ第三の歌枕の国として位置付けています。能因歌枕によるとその数の多いのは、山城(京都〉の86、大和(奈良)の43、陸奥(むつ)の42、摂津(大阪)の35、出羽の19で、この陸奥の国と出羽の国を合せた東北全体では、歌枕としては京都に次ぐ数の多さです。
ちなみに、仙台から松島の方を辿ってみても、つつじが岡、宮城野そして多賀城に入って野田の玉川、おもわくの橋、沖の石、末の松山、壷の碑、浮島を経て、塩釜、まがき島、松島、雄島と続きますが、これらは歌枕の一部ですが、この歌枕に因む著名な和歌とその前後にまつわる物語についてお話をします。
つつじが岡は800年前、1189年奥州征伐に来た鎌倉勢とこれを迎え撃った平泉藤原勢が最初で最後の戦を阿津賀志(あっかし)山(福島県伊達郡)で行っていますが、そのとき平泉四代泰衡が本陣を構えた場所で、鞭楯(むちだて)ともいっていました。古来つつじが岡は歌枕の地として著名です。
みちのくのつつじが岡のくまつづら
辛しと妹(いも)をけふぞ知りぬる (古今和歌六帖)
そして宮城野に入ります。
宮城野の露吹きむすぶ風の音に
小萩がもとを思ひこそやれ
源氏物語桐壷にでてくる一節で若宮を小萩にたとえてその身を案じた歌です。
またその本歌が、
宮城野のもとあらの小萩つゆをおもみ
風を待つごと君をこそまて (古今和歌集)
です。そのほか、
宮城野の萩やをじかのつまならむ
花さきしょり声の色なる (千載和歌集)
宮城野に妻よぶ鹿ぞさけぶなる
もとあらの萩に露や寒けき 後捨遺和歌集
小萩原まだ花さかぬ宮城野の
鹿やこよひの月になくらむ 千載和歌集
宮城野の小萩が原をゆく程は
鹿のねをさへわけて開く哉 千載和歌集
など、萩と鹿を組み合わせた和歌が多く見られます。こういうことで宮城の県花は「ミヤギノハギ」で、県獣は「シカ」になっています。
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