ゆふされば潮風越してみちのくの
野田の玉河ちどりなくなり (新古今和歌集)
この和歌は能因法師が多賀城を訪れたときの歌です。
この能因法師が記した「能因歌枕」を訪ねて、西行や松尾芭蕉がみちのく入りをしたのです。「野田の玉川」を通り過ぎるとと、「おもわくの橋」という、もみじかえでの景勝地がありました。
踏まま憂き紅葉の錦散りしきて
ひとも通わぬおもはくの橋 (山家集)
850年前西行がみちのくを訪れたとき詠んだ歌です。
百人一首に、
なげけとて月やはものを思はする
かこち顔なるわが涙かな
という歌で知られている西行は、みちのくに数多くの歌を残している歌人です。
73年の生涯をおくった西行の生きた時代は平安末期です。国家を支えた荘園制度は崩れ、新たに武士が勃興し保元、平治の乱を通じて平清盛が六波罹政権を樹立し、平家全盛。各地で源氏が起ち屋島、壇ノ浦の戦いを通じて平家が滅び、そして平泉藤原氏も滅ぶという、まさに日本史の縮図のような時代を西行は生きたのです。
西行は、若かりしころ北面の武士として鳥羽上皇の側近く仕え、上皇からは歌や乗馬、蹴鞠を初めとする多才な才能を愛されますが、中宮に恋をしたのでしょうか。高貴な女性との恋を断念すべく、23歳のとき上皇のもとを辞して出家をし、以来半世紀にわたる漂泊の旅に出たのです。出家してまもないころ、身の行く末に一抹の不安を感じたのでしょうか。
鈴鹿山うき世をよそにふり捨てて
いかになりゆくわが身なるらん
という歌を詠んでいますし、漂泊の旅の途中では、
寂しさにたへたる人のまたもあれな
庵ならべん冬の山里
という歌を残しています。
みちのくを二度訪れていますが、最初に訪れたのは26歳のとき、旅の目的は能因歌枕を訪ねての風雅探訪と平泉藤原二代基衡(もとひら)を訪ねてのみちのく入りでした。多賀城を訪れたあと平泉に向かったのですが、当時平泉は二代基衡の下で全盛を極めていました。京の都の外に平泉文化を見出した驚きを西行は、桜の花にことよせて、
聞きもせず束稲山(たはしねやま)の桜花
吉野のほかにかかるべしとは
と詠んでいます。西行は、それから43年を経て再び平泉を訪れました。
旅の目的は、平重衡の南都征討で焼失した奈良東大寺再建の資金援助を得るための平泉訪問でした。平泉藤原氏はみちのくのみならず都の神社、仏閣の再建や修復のため惜しみ無く資金提供を行っています。
現在の東大寺もかなりの部分が平泉藤原氏の寄進によるものですが、そういうこともあり西行は三代秀衡を訪れたのです。しかし、69歳の西行の身にはやはりこの旅は辛かったのでしょうか。
とりわきて心もしみて冴えぞわたる
衣河見にきたる今日しも
という歌をとどめています。三代秀衡は西行に東大寺再建の資金援助を約束しますが、西行と会った翌年、秀衡は泰衡や義経の身を案じながら波乱に満ちた生涯を閉じております。そして、秀衡が亡くなった2年後平泉藤原氏は四代100年の栄華に幕を閉じ、平泉藤原氏が滅んだ翌年西行は、
願はくは花のしたにて春死なん
そのきさらぎの望月の頃
という歌を残し、示寂(じじゃ)をしますが、西行はどのような気持ちで平泉藤原氏の落日を見守ったことでしょうか。西行は二度みちのくを訪れて数多くの歌を家集である山家集にとどめた、みちのくゆかりの歌人です。
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