「おもわくの橋」を通り過ぎると、「沖の石」という、波に見えかくれしながらも決して乾くことのない場所にさしかかります。
おきのいて身を焼くよりも悲しきは
宮こ島べのわかれなりけり 古今和歌集
平安時代の情熱の歌人小野小町の歌です。百人一首には、
花の色はうつりにけりないたづらに
わが身世にふるながめせしまに 古今和歌集
の歌を残した歌人としても知られていますが、この小野小町もみちのくゆかりの歌人です。小野小町の祖父はかつて陸奥守であった小野篁(たかむら)で、父親は出羽国の郡司で、秋田出身というのが有力な説です。才知と美貌で平安宮廷文学に一世を画した女流歌人で、全国各地に小町伝説を残しています。
また、百人一首には、二条院讃岐の、
わが袖は潮干に見えぬおきの石の
人こそ知らねかわく間もなし 千載和歌集
という歌が残されています。
つづいて、「末の松山」という多賀城の喜太郎神社の裏手にある小高い山にさしかかります。この末の松山は波が決して越えることがないということから、ありえないこと、あってはいけないことという心変わりはしないという誓いを詠んだ歌枕です。古今和歌集には、
きみをおきてあだし心を我が持たば
末の松山浪もこえなん
あなたをさしおいて私がもし他の人を思う心を持つなら、あの末の松山は波も越えてしまうでしょう、という逆説的な表現で自分の一途な気持ちを伝えた歌が残されています。また、藤原家隆は、
かすみたつ末の松山ほのぼのと
浪にはなるる横雲の空 新古今和歌集
また、百人一首には清少納言の父である清原元輔の、
契りきなかたみに袖をしぼりつつ
末の松山波こさじとは 後拾遺和歌集
という歌が残されています。
そして、「壷の碑(いしぶみ〉」別称多賀城碑にさしかかります。多賀城碑は多賀城創建時代の歴史を知るためには欠くことのできない貴重な史料として、国の重要文化財に指定されています。多賀城を訪れたとき西行は、
陸奥(みちのく)のおくゆかしくぞおもはゆる
壷のいしぶみ外の浜風 山家集
源頼朝は、
陸奥のいはでしのぶぞえぞ知らぬ
書きつくしてよ壷の石ぶみ 新古今和歌集
という歌を残しています。そして、浮島にさしかかってきます。
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