トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
みちのく宮城に遊ぶー大伴家持と多賀城
2004年1月17日


  
 東北歴史博物館のある所ですが浮島と書いてうきしま、大変不安定な自分の気持ちを伝えるときに使った歌枕で、次のような歌が伝えられています。
  塩竈のまへにうきたる浮島の
       うきて思ひのある世なりけり  (新古今和歌集)
 これは、いまから1250年前の万葉の歌人、山口女王(おおきみ)の歌です。「中納言大伴家持につかはしける」というタイトルですので、若かりしころの大伴家持に恋でもしたのでしょうか。不安で不安でしかたのない自分の気持ちを伝えた歌です。
 この山口女王に恋をされた大伴家持もみちのくゆかりの歌人です。百人一首には、
  かささぎの渡せる橋に置く霜の
     白きを見れば夜ぞふけにける (新古今和歌集)
という歌を残しているこの大伴家持は、いまから1250年前に69年の生涯をおくった万葉の歌人です。大伴家持の生きた時代は聖武天皇の時代です。のちに天平文化といわれる華やかな文化を残した時代としても知られていますが、この時代は一方では、疫病などの流行によって権力の中枢にあった藤原不比等の四子が相次いで亡くなり、皇太子が早く亡くなる。また、藤原広嗣の乱が起こる。そうしたなかで、吉備真備(きびのまきび)や、橘諸兄(もろえ)こういう人達が入れ替わり立ち替わり権力闘争を行い、また、天皇はこれから逃れるように、恭仁、信楽、難波へたびたび遷都を行い、国民には大変大きな犠牲をしいた時代です。こういう時代に大伴家持は生涯を送ったのです。大伴家持は大伴旅人の子です。大伴旅人は大伴安麻呂の子で、大伴家は古来、武をもって朝廷に仕えた家筋です。しかし、
  世の中は空しきものと知る時し
         いよよますます悲しかりけり  (万葉集)
でも知られる大伴旅人や、
  春の野に霞たなびきうら悲し
           この夕かげに鴬鳴くも
また、亡くなった聖武天皇を偲んで、
  高円(たかまと)の野の上の宮は荒れにけり
            立たしし君の御代遠そけば
で知られる大伴家持の時代となると、武人としてよりはむしろ歌人として後世にその名を残しています。大伴旅人は九州筑紫の太宰府の長官として一時期を筑紫で過ごしますが、当時の筑紫守は貧窮問答歌で知られる山上憶良でした。
 旅人と憶良は歌風は違ったのですが、二人が出会い相互啓発しあったことはその後の日本文学を語るうえで大きな影響を与えたといわれます。大伴家持はそのようなの中で多感な少年時代を送りました。当時詠んだ歌で、
  振放(ふりさ)けて若月(みかづき)見れば一目見し
            人の眉引(まよびき)思ほゆるかも
のような繊細多感な少年のすなおな憧爆を詠んだ歌も見られます。旅人はまもなく大納言として都に戻りますが、旅人は都に戻った翌年亡くなり、大伴家持は若くして武門の名門大伴家を継承したのです。そして伯母の大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)あるいは権力の中枢に上りつめつつあった、橘諸兄らのバックアップもあって、華やかな宮廷歌人としてデビューし、当時多くの女流歌人と贈答歌を交わしています。そのあと大伴家持は29歳という若さで越中守として、今の富山県富岡の国府に赴任したのです。越中の国は当時の能登半島をも包含した大国とはいえ、都(ひな)の都です。都の寂蓼と望郷の念に駆られた大伴家持は、越中の国の景勝地を歩いて数多くの歌を残しています。
  立山の雪し消(く)らしも延槻(はひつき)の
             川の渡り瀬鐙(あぶみ)漬かすも
  春の苑(その)紅(くれない)にほふ桃の花
             下照る道に出で立つ娘子(をとめ)
。  当時、都では聖武天皇が奈良の大仏の建立を行っていました。当時金はすべて中国や朝鮮からの輸入に頼っていたのですが、金が大変不足している時、陸奥守百済王敬福(きょうふく)から、我が国初めての金が聖武天皇のもとに届けられました。天皇は大変喜ばれ、皇后、皇太子、文武百官をうちそろえ、我が国初めての産金を仏前に奉謝しますが、その噂を越中の国にいて聞いた大伴家持は、この国の末長い繁栄をことほいで、
  すめろきの御代栄えむと東(あづま)なる
            みちのくの山にくがね花咲く
と詠んでいます。
 まもなく、大伴家持は都に戻りますが、都では激しい権力闘争が行われており、自分を庇護してくれた橘諸兄は次第に権力の座を失墜し、大伴家持も好むと好まざるにかかわらず権力闘争の渦のなかに巻き込まれていきました。以来、歌わぬ歌人となったともいわれますが、薩摩守、上総守など地方の国守を歴任した後、晩年782年持節征東将軍として多賀国府に赴任し、その3年後の785年多賀国府で没しました。亡くなったあと、生前の藤原種継(たねつぐ)暗殺事件の首謀者として官位を剥奪され、隠岐島に配流されました。