1 慶長遣欧使節が世に出るまで
支倉常長の使節のことは、藩政時代は一部の人を除いて知られることはなかった。政宗の治績を記した『貞山公治家記録』に事実のみ簡単に記されているが、これは公開されていないので、一般の人々の記憶からは消え去っていた。
文化9年(1812)に仙台藩医で蘭学者大槻玄沢が藩主の許可を得て仙台川内の片倉邸において支倉の遺物を一覧、 『金城秘?』として取りまとめた。大槻はこの時『貞山治家記録』の中から、支倉関係部分の抜粋を与えられている。『金城秘?』は藩主に献上され秘蔵されたので、一部の人々を除いては知られることはなかった。
明治4年(1871)、岩倉具視全権大使以下の使節団が欧米に派遣された。派遣の目的は、廃藩置県が行われたのちの重要課題として政府は、条約改正の希望を諸外国に告げ、併せて諸外国の制度・文物などの調査することであった。使節団は右大臣岩倉具視,参議木戸孝允、大蔵卿大久保利通、工部大輔伊藤博文ら46名、大使・副使の随員18名、欧米諸国へ留学する年少の華族・士族の子弟43名である。一行は11月12日横浜港を出航、アメリカへ向かった。アメリカからイギリスへ向かい、イギリスではビクトリア女王へ謁見した。フランス、ベルギー、オランダを経由して、ドイツでは皇帝ウィルヘルム1世に謁見した。ロシア、デンマーク、スエーデン、イタリアを訪問した。明治6年岩倉大使一行はヴェニスで支倉関係文書を発見したが、支倉が何ものであるかは知らなかった。慶長遣欧使節が多くの人々に知られるきっかけとなったのは、明治9年(1876)明治天皇の東北御巡幸である。この時仙台で開催された博覧会に、彼の遺物が県令宮城時亮の処置によって出品され、6月25日天覧に浴した。東京日々新聞から特派されてきた岸田吟香の報道によると、かれの遺物は「出品数多きが尤も奇とすべき」ものであった。
この報道が、東京日々新聞社の福地源一郎(桜痴)の注意を喚起し、支倉常長の遺物についての考証が社説となって7月3日の新聞を飾った。福地は岩倉使節に同行したおりヴェニスで書庫の中に支倉のことを見出し、他日の考証にするため写し取り日本へ持ちかえっていたが、伊達政宗が派遣したというのはなにかの間違いだろうと考えていた。
出展された遺物は、首席随員として御巡幸に供奉してきた岩倉具視の斡旋によって、東京の帝国博物館に搬送されるとともに、修史本局の平井希昌に委嘱して、南蛮遣使の研究をさせた。彼は伊達家の資料だけでなく、海外におけるものにまで手をのばして研究を進めた。『伊達政宗欧南遣使考』(明治9年12月出版)がその成果である。
岩倉に支倉についての興味を喚起させたのは、ジエノアの文書館で、大友宗麟(天正11年1583%V正遣欧使節派遣)の書簡を一覧する機会に恵まれたことである。このとき一行は、さらにラテン語で書かれた文書の末尾に「1615年支倉六右衛門」「1616年支倉六右衛門」の署名を発見した。この文書の発見によって得た結論は「天正遣欧使節より30年後なので、大友家の使臣には非ず」「大坂の豊家の残党が、船渡し、再挙をはかったものか」あるいは「伊達の家臣とも伝えられるがそのようなことはあるはずがない、いずれ史家の考証を待つ」(『特命全権大使米欧回覧実記』)と記録にとどめた。だがヨーロッパにおいては、大使一行の発見によって大きな関心が呼び起こされた。
明治9年フランス旧教の宣教師ラングレが来仙、常長のローマ市民証のラテン語を筆写、解説して欧州に紹介した。その後支倉常長は東西の史家によって研究が進められ、明治37年(1904)ボンコンバニー、ルドビジは、「ローマに来たり最初2回の日本使節」を著し、貴重な文書の新発見を報告した。
日本においては、在外使臣によって、文書の発見、その写しの日本への送付が行われた。東京帝国大学資料編纂係においても、資料の蒐集が行われ、明治32年から35年まで、留学生として渡欧した村上直二郎をして、スペイン、イタリア、イギリスに現存する資料の調査をさせた。明治41年7月、東京帝国大学の卒業式に際して、行幸された明治天皇に蒐集資料の一部を天覧に供し、研究の結果を御進講し、翌年『大日本史料』(第12編の12)として出版された。
昭和9年(1934)5月、仙台で行われた伊達政宗300年祭を記念して、『伊達政宗卿』という冊子が出版されたが、南蛮遣使の定説に重大な誤謬のあることが指摘された。
ボルゲーゼ公爵家所蔵の支倉常長肖像画が、天正遣欧使節の伊藤満所のものとなっていることなどである。
常長の墓所については、3説あるがいずれも確たる証拠はない。
(1)仙台市北山光明寺
大槻文彦博士の説である。博士は六衛右門の墓を発見したとされるが、禁教時代に墓が 造られることはないと考えられ、子の常頼や常信の子や孫の墓があるからと言って常長 の墓があるというのは早計と考えられるとの反論がある。
(2)刈田郡支倉村(村田町)
支倉村は支倉家の所領であるが、そは宗家の所領であり、常長の家はかなり以前に分 家をしているので、そのようなことはありえないという反論がある。
(3)黒川郡大谷村東成田西光寺
この場所が支倉家の所領となるのは、常長の孫の時で、祖父常長がこの地には住んでい ないので、あり得ないとする反論がある。
出航場所については月の浦であることは明記されているが、造船場所が雄勝壺浜という のには疑義があり月の浦とするのが自然とする説が有力である。
「サン・ファン・バプチスタ」の船名は、1617年3月13日発ノビスパニア総督か らイスパニア国王宛書簡に出てくるもので、日本名があったかどうかは不明である。
|
|