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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
慶長遣欧使節−2
2025年12月2日

2 慶長遣欧使節の先駆け
 政宗の慶長遣欧使節の先駆をなしたのは、家康の対スペイン交渉である。家康は秀吉のキリシタン禁教の方針を受け継ぐが、西洋諸国との通商は積極的に行おうとした。1609年(慶長14)オランダとの間に通商を開き、1613年(慶長18)にはイギリスとの通商を許可するなど家康は積極的に通商政策を行おうとした。日本とスペインとの交渉は、1609年(慶長14)9月スペイン領ルソン(フィリピン)太守ドン・ロドリゴがメキシコに赴く途中、難船して上総(千葉県)に漂着し、家康によって江戸に呼びつけられたことが機縁であった。
 この時、在日宣教師のルイス・ソテロが家康とロドリゴの間を取り持ち、ロドリゴは通商及び布教について家康に交渉。そこで家康はソテロを使節としてスペインに遣わし、メキシコとの直接貿易を開こうとしたが、たまたまソテロが病気になり、アロンゾ・ムニヨスを代わりとし、さらに京都の商人田中勝助等を同行させて、1610年(慶長15)6月ロドリゴと共にメキシコに遣わした。しかし通商交渉は失敗し、田中等は翌年スペイン使節セバスチャン・ビスカイノの船に便乗して帰国した。ビスカイノは家康と将軍秀忠に謁し、スペイン船の危難に備えるために日本の東海岸の測量を願い出て許可された。
 一方、ソテロは江戸浅草に会堂を建てて布教する傍ら、病院を設けて治療活動を行っていた。政宗の侍女が病気になったとき治療してもらうが、これをきっかけにソテロは政宗の知遇を受けるようになった。ソテロは1611年(慶長16)5月帰国した政宗のあとを追って仙台に来た。
 一方、ビスカイノも海岸測量のために10月4日仙台に入り、6日仙台城に招かれて政宗に謁見した。そのとき政宗はスペイン王と親交を結びメキシコとの通商を開きたい希望を述べたのに対し、ビスカイノは、王は広大な領土を持っているから通商は望まないだろうけれども、各国民を救うために宣教師を派遣することは望むだろうと答えた。10月11日、ビスカイノは航海士・書記を伴って仙台を発ち、翌日は松島に行って瑞巌寺を訪ねるが、このときソテロも同行した。14日から松島以北の海岸を測量し、多くの良港を発見し、28日には三陸沿岸の越喜来で大海嘯の惨状を目撃した。11月5日仙台に帰り、江戸に上った政宗のあとを追って13日仙台を発ち、30日政宗の江戸邸でソテロと共に歓待を受け、翌年さらに西国の海岸測量に向かった。(ビスカイノの『金銀島探検報告』による。)