一昨年、3女の惠子姉が亡くなり、昨年は次女の篤子姉が亡くなった。いつかは訪れる別れではあるが寂しい気持ちで一杯だ。いろいろな思い出が脳裏をかすめる。今回は篤子姉の思い出を書こう。私は、上が女性4人で長男の私、弟と続く姉弟(きようだい)である。私と篤子姉とは10歳の年齢差である。母が語った姉は、長女と違った。長女は裁縫が得意で、戦後の混乱期には母を助けて私たちの幼かった頃、オーバーなど身に着けるものをセッセと作って家計を支えた。
これに対し篤子姉は、畑仕事などで母を支え続けてくれた。当時は食糧難の時代で、私の家でも今とは比べられないほど広大な畑を耕していた。農地解放で大きな打撃を受けた私の家にとって畑は大きな経済的な支えであった。姉は何時もこまめに母の畑仕事を手伝っていたと後年、母は私にしみじみと語ってくれた。
ある秋の夕暮れ時、皆で畑仕事が終わった後、夕焼け空に乱舞する赤トンボを皆で眺めた光景は今でも忘れることはできない。生活は貧しかったけれども心豊かに育てられた。
姉は登米高等学校を卒業した後、仙台に住まいした。最初は宮城県警察本部の秘書課で勤務した後、設立されたばかりの振興相互銀行(現仙台銀行)に勤務し、一時期期仙台での生活をした。日本が高度経済成長に入る前である。
篤子姉は時々、私たちを仙台に誘った。毎日農作業等に明け暮れる母や妹、弟の姿に何か感じることがあったのだろう。家事や農作業に明け暮れる母にとっては、大きな息抜きの場、心の切り替えをはかる場にもなったのだろう。姉はそこまで考えていたに違いない。私達姉弟も母と仙台へ行き、思う存分都会の空気を吸った。デパートが文化の殿堂の時代である。姉はいろいろなものを皆にご馳走してくれたり妹や弟の喜びそうなものを買い与えてくれた。決して姉も豊かではなかったはずだ。
しばしの仙台勤務のあと姉は登米支店に移った。篤子姉は非常な努力家であった。どんな困難に直面してもこれを力強く乗り越え、さらに大きく飛翔していき最高度に洗練されたものに高めていくのが篤子姉の生き方であった。いまは冥福を祈っている。
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